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良いストレスと悪いストレス

3500文字

ストレスを溜めていないだろうか? 世の中には良いストレスと悪いストレスがある。このワードで検索すると論文が出てくるので参考にしてほしい。 

気分屋な私は自由時間がないとストレスを溜めてしまい、いい事が起きない。ストレスに対して身体症状を持っている。心臓の不整脈である。これが出ないように極力ストレスが溜まる事を避ける努力をしている。要するに他者よりも自分を優先している。そして何より理解者がいる。

自身の経験を持って、かけて良いストレスと、かけてはいけないストレスがあると思った。私の場合はかけて良くないストレスは身体症状となって、警告音を鳴らしてくる。

自分にとって、悪いストレスとは、人間関係によるものが特に多いのと、忙しい事である。だから、忙しくする事を極力避けるようにしている。

集団に所属する機会といえば、まずは職場だ。仕事し始めて6ヶ月になるが、極力深い関係にならないように気をつけている。幸い、職場の皆さんは噂好きではあるけれども、自由奔放な私をほっといてくれている。そして少人数であるし、いいことに優しい人たちだ。

私は海外ボランティアから帰国して、作業療法士として専門分野を変えた。治療する対象が”大人”から”子供”になった。職業を変えたようなものだが、今はやっていける自信がついたので、専門が拡がった。

例えると、経理を10年やってきた人が、翌年から営業を行うようなもの、と捉えられている。

子供と対峙する仕事はなんとなくイメージできるけど、発達障害の子供に作業療法士として従事してみると、全く違っていた。未知の分野であり、どんな治療をどのように施すのかなど確立したものはなく、未知の分野だ。

私自身としては、わからないからこそ、好奇心に身を任せ、働く事を決めた。 幸い”イチ”から先輩が教えてくれたので、今でも仕事を続ける事が出来ている。今は”大人”の分野で培った特技が強みとなって取り組みに生かされており、成功あ
り、失敗ありでその浮き沈みを楽しんでいる。

本題に入るが、

良いストレスとは、何か新しい事に挑戦する時に感じる不安を、前向きに受け入れるために生じるストレスである

と私の中で定義している。
それは良い緊張感となって新しい体験を通じ、自分にとって、短期的か長期的かわからないが、良い結果を生んでいるようだ。また、成功した時の達成感は大きな意味を持ち、自分の持つ可能性を広げてくれる。実際、これまでと違い、今の私の体にはストレスによる身体症状が出ない。

毎日、今日もしっかり子供の相手ができるだろうか?という思いに伴うストレスを楽しんでおり、時間の経過と共に生じる慣れを排除している。失敗したとしても、その失敗を学習と捉えられ前向きに進める。

この業種に挑戦するに前は、6ヶ月仕事をしてもし自分に合わなかったら、きっぱり”やめよう”と決めていたが、今はもっと学びたいと思う自分がいて、来年度もこの仕事を継続することにした。加えて、海外の大学院進学先として、発達に障害をもつ子供との関わり方を学ぶ学科に決めた。

新しい事に挑戦するにあたり自信が生まれたので、これから多少の困難であれば楽しめるようになった。前に進むに当たり、少々の壁であれば乗り越えられると思っている。うまく物事が進まない、できないストレスを ”良いストレス” として消化する方法がわかってきた。

以前は新しい事を始めるとき、慣れによる失敗を繰り返し、壁にぶちあたる傾向にあった。 しかし、今はこの良い意味でのストレスが自分自身を調整してくれ、壁にぶちあたるのを防ぐ役目を果たしてくれている。

一方、「悪いストレス」は、私の場合、大概は人間関係に起因する。負のダメージ、疲労しか残さないものは全て悪いストレスであると思っている。

もちろん逆の味方もあるだろう。人間関係によるプラスの側面を全て否定するものではない。しかし、私の場合はこうだ。

それは、他者からの評価だ。他者としての自分。つまり、自分の発言や行動について、”他者からどう思われているか” “他人の目にはどう映るか” などを考える。今となっては無意味な時間であったと思う。

思索を重ねた先に、行き着いた答えの一つ
 ”人は自分が思っているほど真剣に他人について関心を持っていない”
その気付きによって、他者を気にする自分自身をそれによる呪縛から解き放てるようになった。

“確固たる自分をもつ”

これは大事である。徐々に、他人の発言や行動に対する関心が薄れ、それと同時に、他者に評価を受ける自身の行動や発言に必要以上の注意を払わなくなった。傍若無人に振る舞うこととは次元が違う。

他人に気を遣ってばかりいた自分を卒業し、自分自身に正直になると、他
人にそこまで興味がないという自分がいた。

では、なぜこれまではストレスを感じていたのだろうか?
さらに考察すると、それは私自身の潜在意識に、孤独を恐れる気持ちがあったからだ。

それに気付いた昔の出来事がある。それは小学校時代だ。 随分昔だな(笑)
小学生の頃、私は学校では大人しかった為、積極的に誘われる事はなかったが、それでもよく友人と遊んだ。週末や学校帰りに彼らがどこで何をして遊ぶかを、なぜか知っていた私。だが、遊びに誘われることはなかった。ただのグループの構成員であり、特徴もなく面白くないから、誘われないのだと自覚していた。そのままでよかったものを、私は孤独になることが嫌で、みんなの話している話題に必死についていった。

あんなに必死だったくせに、当時話題になった映画や漫画のキャラクターなど、ほとんど覚えていない。実際はそんなに興味もなかったのかもしれない。
毎回、遊ぶという知らせを聞きつけると、リーダー格の友人宅へ電話し、その仲間に入れてもらうことで安心を得ていた。電話する時に、子供ながら心の奥底で 

”何してんだ俺?”   “なんでこんなに媚びないといけないんだ”

なんて思ってたけど、この電話による安心感を得ることは止めれなかった。怖かったんだと思う。そんな事を繰り返しながら、自身の中でグループに所属する事が最優先事項となって大人になってしまった。青年期から育てあげた他者から感じるその負の感情を、自身の中で違和感として認識しながらも置いていかれる!という気持ちから、焦りを感じ、人に合わせる事に精力を使い続けていた。

その頃から、創造すること、自由なアイデアに従うこと、自分の素直な
感情に一切蓋をするようになってしまった。その結果、やる事なす事全てが、中途半端だった。 中途半端は、成功も失敗もしないので、何も生まない。中途半端は、自分の感性や個性に蓋をすることだから、何かうまくいっても自
分の心が満たされず、うまくいかないとその原因を他人にあるとして、自分から逃げる。 原因と結果が本質とずれるため、そこから改善策が見えない。

就職してからも自分の気持ちを抑えてきた為、その無理が身体症状として表れた。個性を発揮し、失敗を繰り返すと、先輩からセクハラ、パワハラに合うこともあった。

そんな状況下、そうした先輩を見返したいと奮起し、必死で勉強、鍛錬を積み、信頼を得ることができた。それは、ある意味自分らしさの現れであったし、成功体験として、自信を持つきっかけとなった。12年かかったが、やる事をやり尽くし、次のステップとして、海外ボランティアへ行く事を決めた。

今は、自分の気持ちに嘘をつく事をやめ正直に生きている。

そうする事で、“悪いストレス”を回避できている。気分爽快だ。集団の中で私が、他者の悪口を言っている訳でもないし、迷惑(攻撃)をかけない努力もしているので、何も恐れていない。

他者が私の事をどう考えようがあまり気にしていない。客観的に人間の様々な行動を見て楽しんでいる。観察は特技である。

そして、妻は気分屋な自分の唯一無二の理解者であるし、よく犠牲にもなっている。そんな妻がそばで支えてくれている事で、私が冒頭に述べた挑戦に毅然と突き進むことができる。妻は、こんな自分を面白く、ただただ楽しんでいるようである。

妻と出会った事で、人間って案外と、ただ一人の理解者いれば堂々と生き、世の中渡り合っていけるものだと感じている。

人生はそれで満足だ。正直に語り合える親友が一人くらいいてもいいかなと思うが・・・私にとって、その理解者は妻であった。それは家族でもいいし、知人友人でもいい。必ず、理解してくれる人は近くにいるんだな~。

今回も読んで頂きありがとうございます。

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