ビザンツ帝国と東欧世界(空欄補充+100字論述+200字論述
問題
以下の文章を読み、各問題に答えなさい (配点100点)
3世紀後半、ローマ帝国は度重なる内乱と異民族の侵入によって、その存続が危ぶまれる危機に瀕していた。こうした状況を打開するために皇帝( ① )は、帝国を東西に分裂統治することを決断する。395年のことであった。その後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入によって短期間のうちに滅亡する一方で、東ローマ帝国は、首都( ② )を中心に、古代ギリシア・ローマ文化の継承者として、独自の文明を築き上げていくこととなる。後世の歴史家によって( ③ )帝国と称されるこの帝国は、皇帝を頂点とする中央集権体制を構築し、強大な軍事力と巧みな外交によって、スラヴ人やイスラーム勢力など、周辺民族の圧力に抵抗し続けた。 6世紀前半には、ユスティニアヌス帝のもとで、旧西ローマ帝国領の北アフリカやイタリアの一部を回復し、帝国の版図は最大となった。しかし、彼の死後、帝国は再び危機に直面する。東方からはササン朝ペルシアの攻撃を受け、バルカン半島にはスラヴ人が侵入してきたのである。7世紀に入ると、預言者ムハンマドが創始したイスラーム教を奉じるアラブ人が、急速に勢力を拡大し、シリアやエジプトといった( ③ )帝国にとって重要な属州を次々と奪っていった。 こうした危機的状況の中でも、( ③ )帝国は、イスラーム勢力の侵入を食い止め、独自の文化と伝統を保持し続けた。8世紀後半から9世紀前半にかけては、聖画像崇拝の是非をめぐる( ④ )と呼ばれる宗教論争が帝国を揺るがしたが、9世紀半ばにこの論争が終息すると、帝国は再び安定と繁栄を取り戻した。10世紀後半に即位した( ⑤ )朝の皇帝たちは、ブルガリア帝国を征服してバルカン半島を制圧し、アナトリア地方へ進出するなど、積極的な対外政策を展開した。 しかし、11世紀後半に入ると、遊牧民( ⑥ )の侵入によってアナトリアは荒廃し、帝国の軍事力は著しく低下していく。ここに、( ③ )帝国と西ヨーロッパ世界を繋ぐ決定的な事件が起こる。1071年のマンツィケルトの戦いで、( ③ )皇帝ロマノス4世が率いる軍隊が、セルジューク朝に大敗を喫したのである。 この敗北は、( ③ )帝国の衰退を決定的なものとしただけでなく、その後の世界史を大きく転換させることになる。西ヨーロッパ世界では、この敗北をきっかけに、聖地エルサレムをイスラーム勢力から奪還するための運動、すなわち十字軍運動が開始されたのである。
(1)空欄①~⑥に入る適切な語句を答えなさい。(各10点)
(2)ビザンツ帝国の国家体制について50字以内で説明せよ。(10点)
(3)ビザンツ帝国の衰退が西ヨーロッパ世界に与えた影響について100字以内で説明せよ。(30点)
解答例
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