列島考古学 移動する生活から定住する暮らしへ
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日本列島における旧石器時代から縄文時代への移行は、自然環境と人類文化の両側面に見られた歴史的画期と言うことができる。この変化は、全球的な大規模気候変動期である氷期から温暖期への移行期に相当する。およそ2万年前の旧石器時代の平均気温は現在よりも5-7度低かったと考えられている。地球は最終氷期といわれる時代の中でももっとも気温の低い時代にあたっており、陸は巨大な氷河に覆われていた。寒冷なだけでなく、海水が減り、海面は今よりも100メートルほど下がっていたため、日本列島に当たる地域は北は大陸と陸続きだった。旧石器時代の人々は食糧を求めて移動を続けていた。 洞穴で暖をとったり、木や枝を組合わせた骨組に覆いをかけた程度の簡単な住まいで、食糧となったのはナウマンゾウ、オオツノシカなどの大型動物だった。生で食べるか、石焼または石を使って蒸し焼きにするか、燻製にしていたと考えらる。
1万5千年ほど前から寒暖を繰り返しながら温暖な気候へと移行する。気候の温暖化により氷床が溶け、海面が上昇し日本海は拡大した。また関東地方も、陸地の低いところが海に沈んでゆき、関東平野の奥まで海が入ってきた。魚貝類の生息に適した内海が現在の海岸線沿いに生まれ、水産資源も豊富になるため、生業に漁労が加わるようになる。氷期が終わって温暖になると、日本海に暖流が入り込むようになり、冬の雪の量が増え、日本海側では、ブナの森が発達した。大型動物は姿を消し、動きの素早い小型動物が増殖、狩りの対象は、シカ、イノシシなど中型で動きのすばやいものに変わった。また、湿潤温暖な気候の下で森林植生が発達し、植生も寒冷な植生から、落葉広葉樹林帯が広がる温暖な気候に変化していく。狩猟・採集・漁撈からなる多角的な定着的生活構造が安定する本格的な縄文社会が列島全体で成立する。
1万2千年ほど前の縄文時代の初めに、土器という新しい道具が作られるようになり、調理の方法は大きく変わった。土器は、水を入れて火にかけることで、お湯を沸かせるようになり、鍋料理、煮物ができるようになった。煮る、ゆでる、アク抜きするなど、さまざまな用途に使うことができる。これによって、それまで食べられなかった落葉広葉樹のクリ・クルミ・トチなどの堅果類も新たに食料となった。また、生食や焼いていたケモノの肉を土器で煮炊きできようになった。
縄文時代は、植物、海産資源の利用が活性化し、定着的な生活行動が促進されるようになる。温暖な気候になり植物も多く自生するようになったことから、人々は旧石器時代と同じく食物やケモノを求めて移動を続けるが、その行動範囲も狭くてすむようになり、ついには一か所に定住し、ムラを営むようになった。地面を円形や方形に掘り、家の骨組みを作り、土・葦などで屋根を葺いた竪穴式住居が登場する。約7千年前頃までには定住化が進み、旧石器時代のような長距離にわたる徒歩移動はほとんどなくなっていった。さらに竪穴住居の中央に炉が備えられるようになり、その後の生活の基盤となった。
海外では、およそ1万年前の温暖化という気象の変化に伴う自然環境の変化に適応した人類が、農耕・牧畜を行うようになり、この時代を新石器時代と呼ぶ。氷河が後退し森林地帯が発達したので、この環境に適応するために生れた。西アジアと東アジアに起源をもつとされ、農耕生産がその基底をなす。一定期間の定住に伴う住居の改善と集落の形成し、磨製石器が普及し生産段階が牧畜・農耕へ移行する。野生動物を捕らえ飼育し増やすことによって、必要な時に食べられるようにする牧畜や、食用植物を選別し栽培する農耕が始まり、家畜の解体や土地の開墾に摩擦石器を用いた。
日本の縄文時代は海産資源や山林資源が豊かで、海外より早く定住化が進んだ。しかし、温暖化した気候に併せて木の実の採取や植林の痕跡は見られるようになったものの、植物、海産資源が豊富であったため海外のように牧畜や農耕がそれほど発達しなかった。農耕や牧畜文化も発見されていないため、世界的にみる新石器時代とは異なるものとされている。
参考文献
・佐々木憲一ほか『はじめて学ぶ考古学』(有斐閣、2011年)
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