駄文:みのの場合
どれだけ時間が経ちましたかね…。
頭の片隅にずっとあったものの、常に忙しく過ごしていたら、いよいよ体調を崩してしまい、1年ほどの時を経て、ようやく駄文を書けるくらいにはなりました。
今年の自分を一文字に要約すると、「病」につきる。
実に十数年ぶりに体がおかしくなり、一日の間に両手で数え切れないくらいの数、トイレに駆け込む日々が続いた。
何かを食すと、何かを接種すると、体が拒絶し、一刻でも早く体外に排出しようと躍起になっているような状態が長く続いてしまった。
解消方法はいくつかあり、そのうちの2~3個を試して、油断はまだ禁物だが、ようやく平穏を取り戻しつつある。
この数ヶ月間で得られた教訓など何もなく、ただ悟るように自分の体が思うようには動いてくれないのだと捉えるしかなかった。
運命など生易しいものではない、もはや業を背負っているのだと、考えるようになってしまった。
医療の発展というのは、どうやら凄まじいらしく、人間の寿命というのは数十年前には予測ができなかったくらいに伸びているとのこと。
ただ、自分の業は解決の糸口をまだ彷徨うことしかできないらしい。
誰を恨むこともできない。
自分の生きてきた環境が、この世界が、自分の体が満足に生きていくには早すぎたのだと、今はできるだけ遠くを見つめるようにしている。
「五体満足でいられることにせめて感謝すべき」
そう何の不自由もなく健康体でいられる人間に言われると「あぁ慰めるフリをして、ただ蔑んでいるのだな。」と思う。
それもその矛先は、自分だけでなく何かしら不自由を抱えている全員に。
「皆、見えないだけで何かしらの病を抱えている。だから心配は要らない。」
そう言われると、「気持ちを分かってほしいなんて一言も言っていない。同情も要らない。事実に対して何かしら意味を見出してもらわなくても別に構わない。」と怒りのような諦めのような渇いた感情が渦巻いてしまう。
自分はただあるだけなのだ。
人よりやや不完全な体で、そこにいるだけなのだ。
それ以外の事実は何もない。
相対化されるものでもなく、ただ黙って受け入れるしかないものに、自分自身で折り合いをつけるしかないのだ。
心の中では、常に反論をしている自分がいるが、他者からかけられた言葉に、ただ「お気遣いありがとうございます。」と返すしかないことにも、表現し難い気持ちを抱えることになる。
自分自身の体が老いていくうえで、この病気へ抗い続けることができるのだろうか。
お腹の中が燃えるような感覚になったとき、生きるためには自分自身に抗い続けるしかないのか、そして、加齢とともに抗う力は弱っていくものなのかと不安がこびりつく。
抗うように生きる。
まるで、激しい川の流れに逆らい上流へと向かう鮭のようだ。
そして、抗った先は、もはや抵抗する術などなく、大きな力に食されるだけの悲しい運命となっているのか。
そう思うと、何でもいいから抗うことなく、ただ海原に繰り出せる自由な運命を過ごしてみたいと目に少し涙が浮かぶ。
思う儘に、ただあるように、流れるように、生きられたらどれだけ楽だろうか。
人生を流れるように過ごしてみたいと希う。
みの
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