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かいじゅうと孤独

 かいじゅうは苦悩した。ティラノサウルスだとかブラキオサウルスだとかスピノサウルスだとか、有名な恐竜とは異なる存在に自分が思えた。かいじゅうは、かいじゅうだった。何にも分類されないような「かいじゅう」なのだ。ギザギザの背びれを持っていて、それは他のどの恐竜にもないものだった。かいじゅうは、ギザギザの背びれが嫌いだったし、背びれと似て不完全な自尊心にも嫌悪を向けていた。それでいて、自己愛が強いことさえ自覚していたのだ。

 嫌いなものといえば、昔から学校が嫌いだった。学校では何かにつけて分類されるからだ。オスかメスかだとか、年上か年下かだとか、ティラノかスピノかだとか。かいじゅうにはそういう区分けは無意味に思えた。もしくは、好感を持てなかった。かいじゅうは、なんだかどこにも属していない感じがした。ギザギザが最後まで判別を妨げるからだ。

 かいじゅうは、ブラキオサウルスのような胴体だったが、ブラキオではなかった。ティラノサウルスのような牙だったが、ティラノでもなかったし、スピノサウルスみたいなサイズだったけれど、スピノではなかった。いつだったか、自分の種類がちっともわからなくて悩んだため、図書館に1ヶ月篭もって恐竜図鑑を読破したことがある。とても詳しくなったが、同時に自分がどれにも当てはまらないようにも、どれにも当てはまるようにも思えて狼狽した。世界が、心地よく自分が座ることができる椅子が見当たらない教室みたいにが見えた。いつしか、原因とも思える歪んだ背びれを見ないように、隠すように、そして進んで忘れるようになった。

 かいじゅうはそういう悩みを誰にも話せなかった。もしかすると、ティラノのあいつだって同様の悩みを抱えていたかもしれない。だとすると自分だけ悩むのもおかしいことだ。しかし、実は誰も理解してくれないんじゃないかと確信していた。ティラノはどうみてもティラノだし、ブラキオはどうみてもブラキオなんだ。きっとこの悩みを話したところで、ぽかんとした表情を向けられて終わりだ。僕の中だけに隠しておこう。ぎゅっとなるべく小さくまとめて隅っこに置いておこう。それはかいじゅうが生きる上で見つけた逃げ道であり、うまく生きる術だった。スピノサウルスみたいな、整った背びれで生まれたかった。

 かいじゅうはそうして、誰と関わる時でも常に一定の警戒と緊張を持って生きてきた。それは彼にとって当然で、普通で、常識的なことだった。快も不快もそこにはなく、ただそうだという事実だけがあった。個人的常識とは、だいだいそういうものだ。しかし、一匹だけ例外があった。学生の時に出来た彼女だった。

 決してはじめてのお付き合いではなかった。かいじゅうは、人と合わせてコミュニケーションが取れるし、気も利かせられる。見た目も割に爽やかで好印象を与えやすいタイプだった。何度かそれまでも恋人はできたし、それなりに親しくしてきた。しかし、誰であっても一縷の緊張を拭えた関係性はなかった。彼女は、はじめてそれを拭えた相手だった。彼女と一緒にいるときだけ、かいじゅうは自分が生きていると、生命の淡く強い可能性を感じることさえできた。そういう関係性だった。

 彼女とは、かいじゅうが大学3年目の時に出会った。初対面から、他の者たちとは全く異なっていた。彼女は、かいじゅうを分類しなかった。どんな特徴があろうと、かいじゅう自身の形を認めた。彼女が手向ける抱擁は、他の誰ともまるで違った。かいじゅうの存在そのものを、生命の根源を震わせるような、やさしい陽光だった。美しい文章をたしなむように、ギザギザをなでた。かいじゅうはその度に涙を流した。理由はわからなかった。

かいじゅうと彼女は、いつもかいじゅうの部屋で会った。多くの恋人のように、外へアウトドアなデートをすることは稀だった。それよりも、2人は夜に部屋に集まり、電気を消して身を寄せあうのだ。夜は魔法にかけたかのように2人の世界を静寂で包み込み、2人だけの秘密の世界を共有した。やはり、ギザギザに彼女が触れるたびにどうしようもなく悲しくなった。

 自然な磁力で引き合った彼女とかいじゅうの生活は3年を超え、気がつけばお互いにもう仕事をしていた。社会に出ると、かいじゅうも彼女ももう大人なので苦労することもあったが、一緒に乗り越えた3年間だった。3回の記念日が過ぎ、かいじゅうが好きな冬を一緒に4度超えた頃、彼女はかいじゅうの元から去ることになった。唐突に。

 いわく、3年という年月、4度の冬を過ごしても、彼女はかいじゅうとの距離を感じざるを得なかったという。常に一抹の寂しさを抱えていたらしい彼女は、4度目の冬、距離が他にまして苦しく感じる季節に、他の恐竜を好きになってしまったようだった。職場の上司らしい。かいじゅうとは違って、勇気と自信に溢れ、物事を決断できる性格だそうだ。かいじゅうは猫背だか、彼は堂々と両肩を広げて佇まうそうだ。彼は、立派で整った背びれを携えているそうだ。彼の勇気そのものみたいな形だそうだ。

「それで彼は、例えば私がどうしようもなく悲しんでいるとしたら、迷わず仕事や趣味より私を助けるっていうの。」彼女はそういった。
かいじゅうは、そりゃあ僕もそうだ、言葉にはしていないがそうするに決まっている、と言いかけたけれどうまく口に出せなかった。「そうなんだね、彼はとってもやさしいんだね」となんとか返した。気持ちの伝え方がわからなくなっていた。いつから?いや、ずっとそうなのかもしれない。

「じゃあ、元気でやるんだよ」と、思ってもないような、でも間違ってはいないようなセリフを残してかいじゅうは帰った。家に帰ると、少し涙が出た。彼女がはじめて抱擁を手向けてくれた時とは全然違う色の涙だった。ひとまず小瓶に少しだけ採って、保管することにした。3日して、そんな小瓶があることに嫌気が刺して窓から放り投げた。彼女の残像は、まぶたの裏から当分消えそうになかった。だから、やさしく声をかけた。
「元気にやってるのかな?」
違う。そんなことを話したいんじゃない。かいじゅうは、自分は伝えたいことの半分も伝えられないことに今さら気づいた。

 日を追うごとに、悲しみはそこはかとなく募った。捨てたはずの小瓶はなぜか今も窓際に残っていて、日々大きくなっていった。その日も投げ捨てたけれど、やっぱり次の日もあった。さらに膨れていた。涙も止まらなくなった。瞳の奥にあるダムが決壊したみたいに、際限なく溢れ続けた。そうなるともう何も手につかずで、3日3晩泣きはらした。これまで泣かなかった分、溜めていた分の貯金かもしれない、なんて考えたけれど視界は滲むばかりだ。

 泣けども泣けどもすっきりせず、陰鬱な気持ちが部屋中を占領していた。全部いやになった。かいじゅうは言った。
「こんなヒレだって、こんな人生だって、何の意味もなかった。これ以上生きたって、いいことなんてありやしない。感情を減らしたって日々は退屈だし、恋をしたって苦しむだけだ。もう、終わりにしたい。なかったことにしてやりたい。なくなればいいのに。」あてもなくかいじゅうは泣き叫んだ。
「空虚だな」ぽつりと呟いて、泣き疲れたかいじゅうはまどろみに消え入った。

 窓から朝の真っ白な光が刺している。泣きわめくうちに、疲れ果てて眠っていたようだ。えらく静かだった。妙だ、と思った。朝は森の雀の声が陽光と交じるはずだ。それに、冬の朝とはいえ太陽の光が白すぎる。かいじゅうは、まるで世界が自分だけになったかのような気分がした。布団を押しのけ、玄関の戸を開けて外の世界を見やった。そこは完全な白だった。光でも闇でもない、純粋な白が広がっていた。しばらくたって、呆気にとられている自分に気づき、かいじゅうは振り返った。今出てきたはずの自宅はそっくり消えていた。文字通り、白とかいじゅうしかなかった。

「完璧な孤独だ。」と、かいじゅうはつぶやいた。
思えば、かいじゅうは人生を通して孤独を感じてきた。しかし、これほどまでに完璧な孤独は知らなかった。完璧な孤独は、清々しさすら内包することに驚きと感動を抱いた。思わず、笑みが溢れる。

「そうか。そうか。嘘だったのかもしれない。全部、嘘だったのかもしれない。」かいじゅうは膝から崩れ落ちた。また、涙を流していた。今度は笑いながら泣いていた。かいじゅうはやっぱり気持ちがわからなかった。泣いている時は笑わないはずだ。笑っているときは泣かないはずだ。しかし、かいじゅうはそうせざるを得なかった。

完璧な白のなか、かいじゅうは眠った。おそらく、もう目を覚ますことはないだろう。

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