写真が好きになれなくて
写真がずっと苦手。撮られることはもちろんのこと、撮ることにも抵抗が残る。修学旅行の後日、多目的ホールに番号付きで並ぶ写真たちを見る苦痛を思い出す。まず、ちっとも写っていない。写っていたとて表情は間の抜けたちんちくりんそのもの。注文する番号をメモするというタスクを期限ギリギリまで遠ざけて、結局母親にひどくどやされる。そうしてさらに写真がイヤになった。
16の折、一度真剣に考えたことがある。なぜ写真にこれほどまでに苦手意識を持っているのか。「写りが悪くて被写体になりたくない」を明らかに超えた嫌悪を感じていたからだ。写真という概念そのもに対する観念的な苦手意識があるとしか思えない。
当時は「写真の持つ非対称性がどうも苦手だ」と結論に付した。恣意的に切り取られ編集されているという事実に対して深い嫌疑を抱いていた。「テレビメディアの編集には悪意がある」と言われるような感覚を写真という概念そのものに看取した。非対称とは差別そのもので、公平さを欠くものだった。その後ぼくはあらゆる真理をおしなべて相対化する行動方針を取り始める。それは8年ほど続く。
この夏の写真を見返していた。iphoneの写真アプリに記録された些細な日々を追体験して、ずいぶん写真を撮るようになったなと感心する。コロナ禍にあって、写真を撮るようなイベントめいたことは少ない。そんな日々に切り取られたのは、河川敷やセブンイレブンの低い看板、雨と夕焼け、ぱんぱんの灰皿、オフィスビル、買わなかった本、仰々しく照らされた夜の店、場所も名前を分からない喫茶店、眠っている街と欠けた月....他者の介在しない、撮る必要のない写真ばかりが並んでいる。
なぜ僕は写真を撮ることができるようになったのだろう。言い換えると、非対称性に関わることをどういう変化によって許容できたのだろう。無常に変化し消滅し生成しゆく流れを、スナップショットすること。見返すにしても、見せるにしても、二度と同様の情報量と質を体感することはできないのに。それでも僕は何かを切り取って、フォルダに残している。
「写真、撮るようになったんやね」
「ああ、そうねえ。言われてみれば」
「無意識に?」
「無意識に...というか自然と」
「そこに葛藤は?」
「特別には...ないかなあ。どういう質問?」
「いやなに、若い頃写真を親の仇くらい嫌ってたやろう」
「嫌いか...苦手なら、あったな」
「何かきっかけが?」
「それも特別にはないけどな...」
「...けど?」
「けど...切り取る勇気に対して、ある種のリスペクトを持つようになった」
「うむ、尊厳のような」
「そうだ、尊厳。非対称さを許容するには、無知であるか聡明である必要がある」
「つまり、聡明な非対称さを許せたということなん?」
「そうだね、ただし意志のある聡明さに限る」
「頭と心と手が繋がっているような感覚だ」
「まさに。日々は移ろい、人も揺蕩う。写真で切り取ることは勇気が要るが、世界と自分の美しさを認めるということ」
「美しいものを美しいというのは野暮やもんな」
「だから黙って、写真に残す」
最後に撮った写真たちを載せようと思ったのだが、文章で説明してしまったのに加えるのは非常に野暮だ。意志を持って切り取ったその時の自分に対する冒涜。自分こそが自分の究極的な味方であり、絶望的な敵でもあることを確認しながら、いくつかの写真を消した。