湖とぼく、世界とぼく【掌編】
【18:27】薄暗さを帯び始めた夏の夕暮れに、ぼくは露天風呂に浸かっている。
うだるような暑さがビルに反射し輪をかけて嫌気が増す都会。耳をつんざくセミの声が溢れる郊外。室内は室内で、殺人的な温度の低さの冷房が体をうざったく吹き付ける。そんな都会の夏からエスケープするように、今は田舎の露天風呂に浸かっている。路面電車が走るような面倒見がいい田舎の温泉。
露天風呂には、風呂が合計3つある。露天風呂の中心部には、グルメ特集が流れるテレビ付きの大きな浴槽。一つは、3つ並んだ五右衛門風呂。もう一つは、今ぼくがいるところ。露天風呂の敷地いちばん端の、ほとんど直接湖に面した風呂。窓もしきりもないほどの露天ぶりだから、まるで湖に浸かっているような気分になる。温泉が湖で、湖が温泉で、そこには境界線もなく、隔たりも分断も溝も壁もない。全ては連続しているように思える。
いや、そもそも世界は連続しているのだ。恣意によって、分断が生み出されているだけのことだ。この湖と露天風呂の連続性も、例えば安全のために壁をつくろうという配慮によって一瞬で崩れ去る可能性を孕むものだ。世界は本来連続していて、そしていとも簡単に非連続的になる。そんな形而上的なことに思考を巡らせている間に、【18:37】雲の色より空の色の暗さが勝りはじめ、空気が夜のそれに近いていく。夏の夜の匂いがする。
【18:42】湖と空の境目も徐々になくなっていく。対岸にひかえめな夜景が広がり、いくつかの堤防が赤や緑の光を放つ。なんの光なんだろう、なんて疑問を浮かべてみたりしながら、自販機で買った缶ビールを開ける。アサヒスーパードライ。温泉で気づかずに発汗し乾いた体に、炭酸とアルコール、麦の味が突き刺さる。小さな唸り声をあげた刹那、視界の右側から光の塊がやってきた。クルーズだ。西洋の船上パーティーで使うようなサイズと絢爛さのクルーズがやってきた。
突然現れたクルーズは、世界の中で完全に浮いた存在だった。ほとんど暗闇の景色の中、そこだけディズニーランドかのように煌々と発光している。対岸の控えめな夜景も生活と残業の光だが、クルーズのそれは欲望を鼓舞するさらに資本主義的な光だ。ハリウッドスターが冴えない下町に紛れ込んでしまったかのような目立ち方。それは、筆舌尽くしがたい魅力を伴う光だった。例え資本主義的であっても。
クルーズは、湖の中央、いやもっと正確には視界の中央まで目立ち続け、また視界の右側まで目立ちながら帰っていく。転勤族の可愛い女の子みたいだ。小3で転校してきて、小5には別の学校へ転校するかのような切なさで、それでいて存在感を残す魅力を持つ女の子。そういう寂しさを湖に落としたままクルーズは消えていった。我に帰ってふと時計に目をやると、【19:20】を指していてる。日没の時刻を過ぎた。
日没後の世界はもう真っ暗だ。もっというと「完璧な暗闇」だ。湖と対岸と空は全て同じ色をしている。もっと正確に言うと、暗闇が空と湖と対岸を覆った以上、すべては暗闇でありそこに色は存在しない。反射光がないから色は存在しない。だから世界は同じ色だし、同じトーンだ。
照明を落としたつくりの露天風呂も夜に比例して暗くなっていて、まるで夜と露天風呂が繋がっているみたいに思える。対岸の夜景も、堤防の赤や緑の光も失われている。なぜか、そこにはもう存在していなかった。ぱらぱらと存在していたはずの客も、見当たらなかった。湖とぼく。世界とぼく。
空、湖、対岸、露天風呂。あらゆるマテリアルは闇に包まれて、いつの間にか境界線を失っていた。もはや湖と露天風呂の連続性は、もっと大きく抽象的な存在に飲み込まれていた。言うなれば、世界の連続性。
暗闇の中、独り水に浸かっている。記憶や思考を捨て去り、「今この瞬間だけ」を五感で認知するのであれば、それ以上のことはわからないだろう。それほどまでに完璧な暗闇であり、完璧な連続性が幾重にも広がっている。世界に独りきり、取り残されたような感覚が左肩から胸部に存在する。あるいはそこが失われた穴ぼこで、存在していないような気がする。
翌日、ぼくは気になって調べて見ることした。クルーズについてだ。ネットからは定休日だったことが確認された。そんなわけない。直接、クルーズの受付まで足を運び確認する。
「きのう、クルーズって出てました?」
すると受付の麦わら帽を深くかぶったおじさんが言った。
「いやぁ、昨日は火曜日だから出せへんよぉ」
うんざりして湖の方に目をやる。【11:30】の夏の湖。刺すような日差しが乱反射する水面は、アルミホイルみたいだ。昨日の夜のそれとは全く違う存在に見える。同じように、自分自身という存在も、あのクルーズを見た前後では、完璧な暗闇を体験した前後では全く変わってしまったかのように思える。あるいは、そもそも人間は毎日ちょっとずつ変化していて、それは殆どの場合に気づくことはなく、象徴的なエピソードがある時だけ特別視してしまうだけかもしれない。例えば、誕生日は少し大人になった気がする。その程度のことかもしれないし、その程度こそ重要であるかもしれない。
今年も7月が終わる。本格的な夏との格闘が始まる。岩みたいに低く垂れ込めた雲の間から、殺人的な日光が刺している。夏はまだ始まったばかりだし、人生もあらゆるタイミングにおいて始まる可能性がある。今この瞬間でさえも。喫煙所を見つけ煙草を出し火をつけたが、暑さに嫌気がさし半分も吸わずに捨てた。都会に戻ろう、そう思い最寄りのJRに足を運ぶ。