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メランコリー・ルーム

 結局のところそれは自己防衛に過ぎなかったのだが、世界が完璧にメランコリーに見えていた時分があった。決まる気配のない定職を見かねて愚痴る母親も、自由業に好奇と羨望と軽蔑を等しく向ける過去の友人も、大型書店に並ぶ大成した経営者が著したハードカバーも、ちっともいいねが付かないアーティスト気取りのTwitterアカウントも、全部だ。全部がモノトーンで、無機質で、陰鬱な様相を呈していた。

 そのころの僕はと言うと、完全に自己の中に存在していた。どこから見るか、どこを見るかというのは常に、自分という概念の細胞壁の内側に留まっていた。

 壁の中にある組織液は、決して壁外との交流を図ろうとしない。そういう意味で、僕は独善的であると同時に「創造的」であった。小説を書く習慣は一つの生業として、日々がいかに暗雲の立ち込めた鬱々としたものかを語った。まるで、陰にこそ人間の本質を看取したとでも言い放つかのように。暗くジメジメしているのに、乾燥感さえ与える文体であった。

 「結局のところ、文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みに過ぎないからだ。」と小説家 村上春樹が書いていた。僕はそれを読みいたく救われた思いがした。欠落部分を暴き立てる連続体として自分の文章がある気がしていたからだ。凸凹のボコをいかに丁寧に描写するか、あるいはその先に欠落を同じくする人との結びつきを、たとえ仮想的にあってでも見いだせるかこそが重要であった。そういう意味で、あくまで文章は自己療養へのささやかな試みに過ぎず、このテキストに出会うまではその認識は無力感を募らせたものだった。

 Macbookを開き、文章という形式を借りることで欠落を暴き立て、自己の存在を確認する。それは、痛みを想起させることで生を実感するという意味では、完全に精神的なリストカットであった。欠落にフォーカスした執筆活動は、短期的には僕を劇的にすくい上げ、長期的には徐々に切り刻んでいった。リストカットがそうであるように。

 物心つく頃には視界が暗鬱としていた僕にとっては、社会のレールに身を委ねず、自由業を目指したことは自然であったように思える。願いが屈折して「社会起業家」を夢見て喧伝していたこともあったが、それは「お金のことは考えずに自由業であれれば」という欲望が屈折した表出だった。シェルターやフィルターの類は、防衛機能が高いほど事実めいたものを歪曲させるらしい。それも、「都合の悪いという都合の良さ」の輪郭を持つことによって。

 屈折したまま進んでいった僕の人生は、自由業として一定の成功への予兆を見せた後に、自ら部分的に綻びを見出し、なんてことのないきっかけに端を発して、完全に瓦解してしまった。精神が引き裂かれ、分裂し、昼と夜の境が無くなった時、世界は最もぼやけていた。明るすぎる街の街灯やネオンも、曖昧で朦朧とした視界では鈍く疼くのだ。結局、フィルターとはそういうものだ。難波の川べりで最後のタバコを消した後、それでも死のうと思えないことに気づいた。希死念慮が無いことにすら、嫌気が刺した。

 そんな状態での創作活動を、健全な目線から今見返している。その目線ではどのような色彩で世界が構成されているのだろうか。さほど変わっていないように思える。喜びや感動の味を思いだした僕は、ゆったりとした時間の流れを生きている。物理的なスケジュールではなく、精神的な時間割においてだが。僕が食べているものは、手を抜いたファストフードではなく、手作りの一汁三菜である。境界線を失った昼夜ではなく、心地よいリズムを生み出す秩序立った計画に生きている。自らを孤独へと追い詰める精神的疾走ではなく、暗い関係性にも光を向けようと試みる仄かな努力だ。

 世界が完璧にメランコリーに見えていた時分があった。しかしそれは、僕自身が生み出した世界がメランコリーであったに過ぎなかった。いわば、僕は自作のメランコリー・ルームの中だけで呼吸をしていたのだ。吸う息も吐く息も、鬱々としていた。ただし、それは僕自身がそうさせていたのだ。当時は決して受け入れ難かった事実が、現在という秩序の目の前に横たわっている。

 一方で、メランコリー・ルームは最大限の自助努力でもあったことは忘れてはいけない。あくまで、あの時、あのシチュエーションにおける自分の努力の極限値がメランコリー・ルームであったのだ。それ以外に、選択肢はなかった。渦中の人間にとって重要なのは、合理的な選択肢ではない。情動的な救済措置だ。理性を超えた脱出ルートだ。

 まとめると、こうなる。あの時、メランコリー・ルームは究極の解であった。しかし、それは自作の虚構に過ぎず、現在を甘やかす効能は射程外だ。だから僕はこう考える。「僕はずっとその場において最善の選択をしてきた。選択しないことも含めて、それはある種の努力であった。ただ、過去どうであったかと、これからがどうであるかは一定無関係だ。つまり、過去は先程までの自分を創ったが、これからの自分にはさほど関与しない。これからを創造するのは、あくまで『今、ここ』の自分自身である。」

 「今、ここ」における「メランコリー・ルーム」とは何であるかを考えてみる。小さな贅沢のつもりで買ったホワイトモカが、下腹部に染みて目をつぶる。ややあって見上げると、僕がいたはずの部屋はそれまでと異なる様子を見せた。

「ああ、こんなにも僕がいた部屋は鮮やかな色合いだったのか」
僕は安心して、もう一度目をつぶった。

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