美しさとは変化
通勤で通る遊歩道には色んな木が植えられていて、その季節ごとの移ろいを楽しむことができる。
その中でも、イペーの木の変化は印象的だった。
この道を使いはじめたのは今年に入ってからで、3月中旬頃までは、葉っぱが付いていたかどうかも思い出せないくらい、全体的に「茶色」のイメージの木だった。他の木々の中には、冬でも青い葉をつけているものもあったから、この木はどちらか言えば目立たない存在。
実際私は、その時はまだ、それがイペーの木だとは気づいていなかった。イペーの鮮やかな黄色い花はよく知っていたけれど、その様子からは、まさかそのイペーだとは想像もつかなかったのだ。
ただ、枝ぶりがとても美しい木だと思った。冬場は日が短いので、家路につく頃には外はすっかり暗くなっていたけれど、街灯に照らされたその木のシルエットは、美術館を歩いているかのような気持ちにさせてくれた。
そんな木に明らかな変化が起きはじめたのは、3月の下旬頃だったと思う。花芽が顔を出し始めたのだ。色はやはり茶色く、産毛に覆われていて、他の木々が丸く蕾を膨らませていく中で、それは上に、細長く伸びていった。
桜の花の蕾は、開花直前になるともうその色を外に滲ませるけれど、その木の花芽はとても頑丈で、まだしばらくは中の色を見せてくれなさそうだった。でもそれが一層、どんな花が咲くのかと、私を密かにわくわくさせていた。
ソメイヨシノの花が終わった頃、ついにその木が、ぽつりぽつりと花を咲かせ始めた。ここでようやく、この木があのイペーだったということを知ることとなった。
満開になったイペーの木は、以前の茶色く目立たない感じがまるで嘘のように、遠くからでもその存在感を主張し、周りを照らさんばかりの明るい黄色を惜しみなく輝かせていた。
そして2週間ほどで、イペーはその木の下に黄色い絨毯を作り、今度は花と負けず劣らず大きめの、でも優しい色味の葉をつけ始めた。
開花の予想外の急展開からほっと一息、控えめな緑色に癒されていたら、今度は花が咲いていた場所に、何やらニョキニョキと細長いものが生えはじめたのだ。イペーに鞘が付くというのを、私はその時初めて知った。
今から2週間ほど前だっただろうか、いつものように歩いていると、イペーの木の下に、何やら白っぽいものがバラバラと、沢山落ちている。
近づいて見るとそれは種で、見上げると、パーン!と音が鳴ったんじゃないだろうかと思うくらいに気持ちよく、鞘がはじけていた。
イペーの種は、ワンタンみたいな形をしている。餡の部分が種で、その周りに透けるほどに薄い羽が付いている。風が吹くたびに羽があおられて、少しずつ、少しずつ移動していった。
種の形に感心しつつ、その場を後にしてまた歩き始めると、ふと、この数か月の間、あのイペーの木に、1本の映画を観せてもらっていたような気持ちになった。
私たち、特に日本人の私たちは、いつからか、ある一定の年齢の状態を良しとする価値観の中で、生きてきたように思う。そして多くの人が、外見の美しさを、どこかで留め置こうとしている。
もし、あのイペーの木がずっと花を咲かせ続けていたなら。
私はきっとどこかのタイミングで見飽きて、目を向けなくなってしまったと思う。そして、あの芸術的な枝ぶりにも、ずっと気づくことはなかっただろう。
どの瞬間にも見どころがあって、私が監督だったらなら、あの木の、どの場面もカットしたくない。
変化していく姿の中に、美しさがあるのだと思う。
美の価値観は一人ひとり違って、もちろん正解はないのだけれど、強迫観念のように年齢的な若さや見た目にこだわるのなら、それは少し違うのかなと、最近思う。
お花でも、フレッシュな花と、プリザーブドフラワーでは、やっぱりどこか違う。
私は、ほくろができやすい体質で、さっきも何気なく腕を見たら、ほくろの赤ちゃんを、左腕だけで新たに3つも見つけてしまった。
もっと若い時は、この体質を気にしていたこともあったけれど、今は、プラネタリウムみたいだな。笑 と面白がれる自分がいる。(しかもこのプラネタリウムでは星がどんどん拡大、誕生する。)
そういえば先日、たまたまある方のブログを見たのだけれど、そこにはお子様とのほっこりするエピソードが書かれていた。
小さなお子様が、その方のおでこのシワを見て一言、「お母さんのおでこ、しましまでかわいい~」と言ったとのこと。その方は、その時は恥ずかしかったけれど、そんな風に考えてみるのも良いと思った、と、確かそのように書かれていた。
そのお子様のような感性で生きたら、世界がどんなに美しいもので溢れるだろう。
変わっていくからこそ、その一瞬一瞬の美しさに価値が生まれる。
だから変わっていくことを、心から喜べる生き方をしたいな、と思う今日この頃である。