「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」志賀直哉『小僧の神様』篇②(第269話)
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2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
「仙吉」という名前が重要?
丁稚にありがちな名前でしょ?
志賀直哉が適当に選んだんじゃないの?
そんな単純な理由で主人公の名前をつけると思うかい?
『ライフ・オブ・パイ』のパイ、『ジョゼと虎と魚たち』のジョゼ、『魚服記』のスワ、『南京の基督』の宋金花…
みんな、ちゃんとした意味があったよね?
では、いったい…
それは先程の冒頭フレーズの中に隠されている。
あの「書き出し」の一節の中に。
え? 書き出しに?
仙吉は神田の或秤屋(はかりや)の店に奉公している。
この短い一文のどこに隠されているというの?
「パイ」とは「あかし」という意味だった…
「ジョゼ」は「イエス」という意味だった…
「スワ」は「神」という意味だった…
「宋金花」は「アーメン、キリスト」という意味だった…
そして「仙吉」とは…
「神のことば、メシアの福音」という意味…
神のことば? メシアの福音?
仙吉の「吉」は吉兆の「吉」だから「福音」というのはわかりますが…
「仙」がなぜ「神のことば」に?
簡単だよ。
志賀直哉は「仙吉」という言葉で物語を始めているだろう?
「仙吉は神田(カミだ)」と…
もしや「ことば」というのは…
『ヨハネによる福音書』の書き出しのことですか?
1:1
初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
その通り。
うふふ。田辺聖子もこれを再現してたわよね。
『ジョゼと虎と魚たち』の初めは「カミのことば」だった。
神戸の高速道路を走る車の中で、ジョゼこと「クミ」が叫ぶ言葉…
「わっ。橋だあ」
「わっ。海だ」
ジョゼは嬉しさで息をつまらせながら叫ぶ。
だけどなぜ「仙」が「言(ことば)」なの?
それなら「仙吉」じゃなくて「言吉」でしょ?
もし志賀が「現代口語訳の聖書」を元ネタにして書いていれば、そうなったかもしれない。
だけど『小僧の神様』は1920年に発表された作品だ…
つまり、当時の聖書を基にして書いたから「仙吉」になったと?
その通り。
芥川も『南京の基督』で再現していた「明治元訳新約聖書 」1915年(大正4年)版の書き出しは、こうなっている…
約翰傳福音書 第一章
1 元初(はじめ)に道(ことば)あり 道ハ神と偕(とも)にあり 道ハ即(すなは)ち神(かみ)なり
道?「ことば」は「道」なの?
そう。昔は「ことば」に「道」という字をあてていた。
「道ハ神」って…
まるで七福神のもとになった、道教の8人の神仙みたいですね…
『八仙絵図』
仙八?
ちょー懐かしい(笑)
金八から生まれたのが「たのきんトリオ」で、仙八から生まれたのが「シブがき隊」。
いったい何の話をしてるんですか…
あの名曲『萌ゆる想い』を聞いても、まだわからぬか?
「仙」という字は…
「人」が長い坂道を歩み「山」に至ると書くのじゃ…
仙という字?
そして漢字の「仙」とは…
世界の真理である「道(タオ)」を体現する者という意味…
つまり、神や宇宙と一体化した者という意味ね…
「仙」は「道」?
そして、人が宇宙の真理「道」を体現する存在「仙」となり昇天することを「天仙」という。
中でも、昼間に大勢の人々が見ている前で天仙することを「白日昇天」と呼び、それを成し遂げた者は神として崇められる。
白日昇天?
それって、まるでイエスのことみたいじゃん…
『磔刑図』アンドレア・マンテーニャ
そして「道」を悟り「仙」となった者が、肉体を地上に残していった場合、魂が後日、その肉体を取り戻しに来るんだけど、これを「尸解仙」という…
棺の中から遺体だけが消失し、着せられていた衣服が脱ぎ捨てられているのを見て、人々は驚いたというわ…
それもイエスの復活シーンそのもの…
『空になったキリストの墓を見て驚くペトロとヨハネ』
ジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリ
はじめに道(ことば)があり、道(ことば)は神と共にあり、道(ことば)は神であった…
そして、宇宙の真理 道(タオ)と一体化した者を「仙」と呼ぶ…
つまり「仙」は神。
そういうことだったのね…
ちなみに「仙」は、英語の「セント」のことでもある。
「セントルイス」とか「セントポール」のセント?
聖人のセントじゃなくて、通貨のセントです…
セントは漢字で「仙」、ドルは「弗」と書きます…
さて『小僧の神様』の冒頭フレーズに戻ろう。
志賀は主人公の仙吉を「秤屋」の奉公人だと書いた。
この意味、わかるかな?
仙吉は神田の或秤屋(はかりや)の店に奉公している。
意味?
オチがお稲荷さんとキツネ憑きだからじゃないの?
キツネは人を騙す。だから「謀り屋」…
小僧仙吉は人を騙していないよね。
あ、そっか…
わかりました!
「秤」はジャッジメントの象徴で…
救世主キリストは、最後の審判に再び降臨するから…
『小僧の神様』では、そこまで描かれない。
最後の審判は『ヨハネによる福音書』ではなく『ヨハネの黙示録』のメインテーマだ。
じゃあ何なの?
簡単なことだよ。
1915年版『約翰傳(ヨハネ伝)』の冒頭の続きを読めばわかる。
2 この道(ことば)ハ太初(はじめ)に神と偕(とも)に在(あり)き
3 萬物(よろづのもの)これに由(より)て造らる 造られたる者に一つとして之に由(よ)らで造られしハ無(なし)
どういうことですか?
あらゆるものは「これ」を使って作られる…
製造されるもので「これ」が使われないものはない、と言っているのよ…
え?
これを志賀は「秤(はかり)」に置き換えたんだ。
良い製品を作るには材料の正確な計量が欠かせない。
もちろん「計り」、しっかりとした計画も欠かせない。
なるほど…
とことん『ヨハネによる福音書』の冒頭を再現してたわけね…
冒頭の一文に続くシーン、二人の番頭による会話と、それを聞いている小僧仙吉の描写も、それに沿って描かれている。
まず志賀は、秤屋の店先の情景を、こんなふうに描写をした。
それは秋らしい柔らかな澄んだ陽ざしが、紺の大分はげ落ちた暖簾の下から静かに店先に差し込んでいた時だった。店には一人の客もいない。帳場格子の中に座って退屈そうに巻煙草をふかしていた番頭が、火鉢の傍で新聞を読んでいる若い番頭にこんなふうに話しかけた。
「紺の大分はげ落ちた暖簾」ということは、老舗ってことかなあ。
・・・・・
「一人の客もいない」だから、落ち目ってことじゃない?
若い番頭が仕事もせずに新聞読んでるくらいだから。
うふふ。そうじゃないのよ。
え?
まず志賀は、光と影のコントラストを描写した。
「秋らしい柔らかな澄んだ陽ざし」が「紺の大分はげ落ちた暖簾」に遮られながらも、その「下から静かに店先に差し込んでいる」と…
これは『ヨハネ伝』の第四節・第五節を表現したものだ。
4 之(これ)に生(いのち)あり 此生(このいのち)ハ人の光なり
5 光ハ暗(くらき)に照り 暗ハ之を曉(さと)らざりき
あっ…
そして志賀は、先輩格の番頭について説明する…
「帳場格子の中に座って退屈そうに巻煙草をふかしていた」と…
これは第六節と第七節だね。
6 偖(さて)こゝに神の遣(つかは)し給(たま)へるヨハ子と云へる者あり
7 その來(きた)りしハ證(あかし)の爲(ため)なり 即(すなは)ち光に 光に就(つき)て證を作(なし)すべての人をして己に因(より)て信ぜしめんが爲なり
ヨハ子?
ヨハコじゃなくてヨハネと読む。「子」は子丑寅の「ね」。
しかし、どうしてこれが?
番頭は巻煙草をふかしていた…
ふかしていたということは、タバコに火がついているということ…
つまり「即ち、光(火)につきて證(あかし)をなす」だよね…
なるほど…
そして「ヨハ子」は「帳場格子」…
え?
帳場格子は「チヨウバコウ子」でしょ。
マジですか…
だから先輩番頭の名前は「幸(こう)」ではなかったの…
続く第8節に「彼はこうにあらず」と書かれているから…
8 彼ハ光に非ず 光に就(つき)て證(あかし)を作(なさ)ん爲に來(きた)れり
そんなダジャレ… 嘘でしょ…
志賀直哉は駄洒落の天才じゃ。
しかも誰にも気付かれぬようシレーっと書く。
世間の者は、まさか小説の神様がダジャレを連発しとるとは思いもせん…
志賀直哉
ポーズをキメてカッコつけながらハエを額にとめるなんて最高に面白いことしてるのに、何事もなかったように表情一つ変えない…
あれは志賀の小説における芸風そのものだったのね…
さて、若い番頭のほうは、火鉢の傍で新聞を読んでいた。
これは第9節・第10節にあたる。
9 夫(そは)すべての人を照(てら)す眞(まこと)の光ハ世に來(きた)れり
10 かれ世にあり世ハ彼に造(つくら)れたるに世これを識(しら)ず
なるほど…
読んでいたのは、おそらく朝日新聞ですね…
店先には、二人の番頭の他に、もうひとり小僧仙吉がいた。
だけど二人の番頭は、なぜか小僧仙吉の存在を完全に無視している。
まるでそこに小僧仙吉が居ないかのように振る舞い、会話を行うんだ。
イエスが神の子であることに気付こうとせず、無視していた当時の人々のように。
第11節から第13節ね。
11 かれ己(おのれ)の國(くに)に來(きた)りしに其民(そのたみ)これを接(うけ)ざりき
12 彼を接(うけ)その名を信ぜし者にハ權(ちから)を賜ひて此(これ)を神の子と爲(なせ)り
13 斯(かか)る人ハ血脈(ちすぢ)に由(よる)に非(あら)ず 情慾(じょうよく)に由に非ず 人の意(こゝろ)に由に非ず 唯神(たゞかみ)に由(より)て生れし也(なり)
小僧仙吉は、庶民の生まれだから血筋はない…
まだ性の目覚めが来てないから情欲はない…
「また来るように」と言われても行かなかったように、人の意に従わない…
そして「神に由(かみにより)」は「神田」に似てる…
パーフェクト。
番頭二人による会話は、まず先輩番頭のセリフから始まる。
「おい、幸(こう)さん。そろそろお前の好きな鮪(まぐろ)の脂身(あぶらみ)が食べられる頃だネ」
鮪の脂身?
なぜ志賀は「トロ」と書かなかったのでしょう?
あの当時、鮨の通(つう)は「トロ」を口にしなかった。
それどころか「トロ」という名前すら口にしなかったんだよ。
ええっ!?
トロが鮨の最高級ネタになったのは、ここ100年のこと…
江戸や明治の頃までは、鮪の脂身は食べられることなく、ほとんど放り捨てられるものだった…
客も脂身なんて見向きもしなかったし、鮨職人も鮪の脂身を下品なものと考えていた。「あんなもの握れるか」とね…
マジで? 肉で言うとホルモンみたいな感じ?
それが大正時代、1910年代に大きく変わる。鮨の世界に革命が起きたんだ。
庶民の間でトロの大ブームが巻き起こり、それまで見下されていたトロは、一躍、鮨の王になった。
だから当時、昔ながらの鮨にこだわる人は、鮪の脂身を口にしなかった。
「トロ」という言葉すらも口にせず、古くからの呼び名「アブ」を使っていたの。
アブ?
だから先輩番頭は通ぶって、若い番頭に「お前の好きな鮪の脂身が食べられる頃」と言ったのか…
それだけじゃない。
この小説における最重要ワード「鮪の脂身」には「あるもの」が投影されている。
あるもの?
ここまで志賀は『ヨハネ伝』第1章の各節を忠実に再現してきた。
次は第14節だよね…
14 それ道(ことば)肉體(にくたい)と成(なり)て我儕(われら)の間(うち)に奇(やど)れり 我儕(われら)その榮(さかえ)を見るに實(まこと)に父の生(うみ)たまへる獨子(ひとりご)の榮にして恩寵(めぐみ)と眞理(まこと)にて充(みて)り
道(ことば)肉體(にくたい)と成(なり)て…
道(ことば)とは神だから…
神が肉体になった、ということ…
その肉体は恩寵(めぐみ)であり真理(まこと)が充、つまり満ち溢れているいるという…
キリストが最後の晩餐で弟子に「食べなさい」と与え、翌日には十字架で全人類のために捧げた、己の肉体…
志賀はそれを「鮪の脂身が食べられる頃」と表現した…
その通り。
そして「鮪」は「魚が有」と書く…
なぜ志賀が、他でもない「鮪」にこだわったのか、わかる?
え?
「魚が有」は、キリストのシンボル…
地面に描かれた「魚が有」は、キリスト教が公認される以前のローマ帝国で、密かに信仰を続けていた 隠れキリシタンの暗号だ…
ああっ!
そして、十代半ばだった小僧のパイも…
キリストの肉体「魚」を食べた…
なんてこった…
先輩と若い番頭の会話は続く。
「今夜あたりどうだね。お店を仕舞ってから出かけるかネ」
「結構ですな」
「外濠(そとぼり)に乗って行けば十五分だ」
「そうです」
「あの家(うち)のを食っちゃア、この辺のは食えないからネ」
「全くですよ」
若い番頭はイエスマン…
「YES」しか言ってない…
この部分は第15節・第16節だね。
15 ヨハ子之(これ)が證(あかし)を作(なし)て呼(よび)いひけるハ 我(われ)さきに 我に後(おく)れ來(きた)らん者ハ我より優(まさ)れる者なり 蓋我(そはわれ)より先に在(あり)し者なれバ也(なり)と言(いひ)しハ此人(このひと)なり
16 我儕(われら)みな彼に充満(みち)たる其中(そのうち)より受(うけ)て恩寵(めぐみ)に恩寵を加(くはへ)らる
お店を仕舞ってからわざわざ電車で出かける、つまり到着時間が後になる「あの家(うち)の」鮨は、すぐに行ける「この辺の」鮨より「優れるもの」ということ…
そして第15節で「私の後から登場するけど、実は私よりも先にいた人」と説明されるのは、イエス・キリストのこと…
だからこの番頭のセリフのあとに、ずっと後ろに座っていた主人公 小僧仙吉が登場する…
若い番頭からは少し退(さが)った然るべき位置に、前掛の下に両手を入れて、行儀よく座っていた小僧の仙吉は、「ああ鮨屋の話だな」と思って聴いていた。
うふふ。志賀のダジャレ、わかった?
「ああスシヤの話だな」は…
「ああメシヤの話だな」…
ビンゴ。
なんなんですか、これは…
志賀はずっと『ヨハネ伝』を別の話に置き換えているだけ…
だから志賀は「小説の神様」と呼ばれたんだよ。
では続きを見ていこうか…
つづく
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