「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」(第262話)
前回はコチラ
2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
名前のカラクリがわかったところで、いよいよ「受難の男」登場のシーンに行くとしよう。
いったい芥川は、あの泥酔男で何を描こうとしていたのか…
まず芥川龍之介は、宋金花が陥った窮状を説明しました。
金花は何時もかう云つて、実際彼女の病んでゐる証拠を示す事さへ憚(はばか)らなかつた。だから客は彼女の部屋には、おひおひ遊びに来ないやうになつた。と同時に又彼女の家計も、一日毎に苦しくなつて行つた。……
宋金花は「誰かに受難を肩代わりさせて自分は楽になる」という行為を「罪」だと思っていた。
だから、来た客の話し相手にはなるけど、体の奉仕だけは頑なに拒み続けた。
だけどそれでは収入が途絶え、父子共に飢え死にしてしまう…
金花ちゃんは、まだ気付いていなかったのよね。
イエスの教え、キリスト教の本質を…
えっ?
ついに宋金花の部屋を訪れる者は誰も居なくなった。
そして運命の日がやってくる。
それは10月中旬のこと…
今夜も彼女はこの卓(テエブル)に倚(よ)つて、長い間ぼんやり坐つてゐた。が、不相変(あひかはらず)彼女の部屋へは、客の来るけはひも見えなかつた。その内に夜は遠慮なく更け渡つて、彼女の耳にはひる音と云つては、唯何処かで鳴いてゐる蟋蟀(こほろぎ)の声ばかりになつた。
なぜ「10月」と断定できるのですか?
すぐ近くでコオロギの鳴き声が聴こえるからだよ。
そういう状況は、文学的に「10月」と決まっているんだ。
文学的に決まってる?
七月在野
八月在宇
九月在戶
十月蟋蟀 入我牀下
なんですか、それは?
おぬしは漢詩も知らんのか。
中国最古の詩篇『詩経』にある、貧しき者の暮らしを描いた詩『豳風(ひんぷう)』じゃ。
コオロギは、7月には野原にいて、8月には軒下にいて、9月には玄関先にいて、10月には寝室に入って来る…
そこから二十四節気 七十二候における第五十一候、10月中旬を表す言葉「蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)」が生まれた。
ぎりキリストにあり?
「きりぎりす とにあり」だよ。
コオロギが戸口で鳴くという意味だ。
そして「蟋蟀在戸」は…
古くは「菊有黄華(きくにこうかあり」と言った…
きくにこうかあり?
なんだか「聞くに効果あり」のダジャレみたい…
聞くところによると効果があるらしい、みたいな…
菊有黄華は斧琴菊(よきこときく)の元ネタという説もあるとかないとか。
それにしても腑に落ちません…
なぜ「蟋蟀在戸(キリギリスとにあり)」なのに「コオロギ」なのでしょう?
コオロギが大きくなったらキリギリスになるんじゃない?
そして最後はトノサマバッタに…
そんな馬鹿な…
カワウソとビーバーとラッコじゃないんですから…
見てください。色も形も鳴き声も、まったく別物ですよ…
残念だが…
コオロギとキリギリスは同じ虫なんだ…
えっ!?
コオロギのことを、元々は「きりぎりす」と呼んでいたんだよ。
鳴き声が「キリキリ」と聞こえるから「きりぎりす」。
は?
では、今わたしたちが「キリギリス」と呼んでいる緑色の虫は、何と呼ばれていたのでしょう?
少なくとも平安時代は「促織(はたおり)」と呼ばれていた。
コオロギは「きりぎりす」で、キリギリスは「はたおり」だ。
それがいつの間にか変わってしまったらしい。江戸時代中期、1719年に新井白石はこう言っている。
「古にハタオリメといひしものは、今俗にキリキリスといふ是也。古にキリキリスといひしものは、今俗にコホロギといひし是也。」
そういえば、童謡『虫のこえ』の2番でも…
昔は「キリキリ」は「キリギリス」だったのに、いつの間にか「コオロギや」に変わってた気がする…
あれはまた別の理由があったらしいんだけどね。
「キリギリス」だった虫が「コオロギ」と呼ばれるようになった…
わけわかりません。
うふふ。
ちなみに、さっきの漢詩には続きがあるのよ。
穹窒熏鼠 塞向墐戶
嗟我婦子
曰為改歲 入此室處
どういう意味ですか?
ねずみを熏りだし
戸口を塞ぎ、室内を密封しよう
ああ私の家族たちよ
すべてが一新される日のために
この室内に籠りましょう
入口を塞ぎ、部屋を密封する?
すべてが一新される日のために?
不思議な詩だなあ。いったい何のことだろう?
うふふ。
まあ何はともあれ、芥川は七十二候の「蟋蟀在戸」を想起させた…
金花ちゃんのすぐ近くでコオロギが「キリキリ」鳴いていると…
そして、あの男が入って来る。
コオロギじゃなくて泥酔男が。
いや。あの男は「コオロギ」なんだよ。
は?
男を断っていた宋金花のそばで「キリキリ」と鳴くコオロギ…
この意味、まだわからない?
どういうこと?
男が出現する前…
宋金花は、眠そうにランプの光を見つめ、あの「翡翠の輪」を指でこすり、あくびをしそうになって止めていた…
え?
その瞬間、男が現われたんだ…
金花はうす暗いランプの火に、さつきからうつとり見入つてゐたが、やがて身震ひを一つすると翡翠(ひすゐ)の輪の下つた耳を掻いて、小さな欠伸(あくび)を噛み殺した。すると殆(ほとんど)その途端に、ペンキ塗りの戸が勢よく開いて、見慣れない一人の外国人が、よろめくやうに外からはひつて来た。
ヒスイの輪をこすり、あくびを噛み殺したら、目の前に見慣れぬ外国人が現われた…
なんだか、アラジンと魔法のランプや、ハクション大魔王のアクビちゃんみたいですね…
うふふ。
春に宋金花が若い日本人からプレゼントされていたのは「翡翠の耳環」だった…
だけどここで芥川は、なぜか「翡翠の輪」と書いている…
ちょっと不思議だと思わない?
「翡翠の耳環」を「翡翠の輪」と…
なぜでしょう?
どっちも「ヒスイのリング」だから別に関係なくない?
作家は言葉が商売道具。
特に短編小説では、言葉の選び方ひとつにも、とても神経を使うものだ。
だから「翡翠の耳環」を「翡翠の輪」と言い換えたことには、必ず意図が隠されている。
意図? 何の?
芥川は、この「翡翠の輪」のことを言っているんだ…
眠そうな目をして光を見つめ…
欠伸を堪えているように見える乙女の…
頭に付けられた「翡翠の輪」のことを…
こ、これは…
うふふ。
金花ちゃんがポリポリ食べていた「盆に入れた西瓜の種」も、何のことかわかったでしょ?
確かにあの黒い粒々は、丸いお盆に入っているスイカのタネのようだ…
しかもタネが口元に吸い込まれて行くように見えるし…
ということは…
彼女の目の前に現れた、見慣れない異国人風の男というのは…
コオロギのように翼をもち…
「蟋蟀在戸」よろしく、どこからともなく屋内に入って来て…
「キリキリ」と鳴くコオロギのように「キリスト」のことを謳う…
まさに、大天使ガブリエルだ。
『Annunciation』Fra Angelico
なんてこった…
芥川は、フラ・アンジェリコの『受胎告知』のことを言っていたんですか…
だから太宰治は『魚服記』で、そして田辺聖子は『ジョゼと虎と魚たち』で、この絵を再現していたの…
『南京の基督』が元ネタだから。
ちなみにこのネタ「翡翠とコオロギ」は…
『ライフ・オブ・パイ』でも再現されている。
ええっ? どこで?
翡翠もコオロギも出て来なかったでしょ?
オープニングの動物園だよ。
突如目の前に現れたカワセミを不思議そうに見つめるナマケモノのシーンがあったでしょ?
は?
カワセミは漢字で「翡翠」と書くのじゃ。
だから「ヒスイ」とも呼ばれる。
そんな、まさか…
しかしコオロギはいません。
いるじゃないか。カワセミの目の前に。
お言葉ですが、教官…
カワセミの目の前にいるのはコオロギではなくナマケモノです…
もう忘れたの?
「コオロギ」は元々「キリギリス」なのよ。
「蟋蟀(コオロギ)が戸に在り」と書いて「きりぎりすとにあり」と読んだでしょ?
キリギリス? それが何か?
キリギリスといえば…
ナマケモノ(笑)
そ、そんな馬鹿な…
ありえない…
トラが言ってる…
「ありえる」って…
う、嘘だ…
じゃあ、なぜ「カワセミとナマケモノ」の組み合わせなのだろう?
あれを説明できるかい?
それは… えーと…
ヤン・マーテルとアン・リーなら、やりかねん…
いや。あの二人だからこそ、わざわざ「翡翠と蟋蟀」を再現してみせたのじゃ…
間違いありませんね。
うふふ。
それじゃあ、金花ちゃんと泥酔男のコントも解説してもらおうかしら。
コント?
よろしく、深読み探偵さん(笑)
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?