「イシグロの暗号」~『夜想曲集』#2~カズオ・イシグロ徹底解剖・第62話
さて、どんどん進めるよ。
前回を未読の人は、こちらをどうぞ~
主人公の「ぼく」ことレイモンドとチャーリーがフラットに戻ると、エミリが「フィナンシャルタイムズ」を読んでいた。
エミリを見て「ぼく」は驚く。以前よりかなり太ってて、口元がブルドッグみたいだったからだ。
ひでえな(笑)
なぜ「フィナンシャルタイムズ」なのか、わかるか?
なぜ?
たまたま読んでただけじゃないの?
『日の名残り』の「訳者あとがき」でも土屋政雄氏は「ニューズウィーク」を使っていたよな。
イシグロ作品では雑誌名にも全て意味が隠されている。
じゃあ何?
「フィナンシャルタイムズ」とは「十戒の石板」のことなんだよ。
ええ!?なんで!?
「十戒の石板」は、よく「薄いサーモンピンク」の石板として描かれる。
そして「フィナンシャルタイムズ」も「薄いサーモンピンク」の紙面が特徴だ。
しかも「投資家のバイブル」と呼ばれているしな。
どひゃあ!
しかもエミリは不機嫌そうに「フィナンシャルタイムズ」を読んでいた。
なぜなら「十戒」には「汝、姦淫するなかれ」とあるからね。夫チャーリーはこれに抵触していたわけだ。
そしてレイモンドは「隣人に関して偽証してはならない」を破ることになるんだよね。
あと「隣人の妻を欲してはならない」も破った可能性が…
さて、エミリはレイモンドに近況をあれこれ尋ねる。
その間チャーリーは荷造りをしている。レストランで説明した通り、二人は同じ場所に居ても目を合わせないし、直接会話もしない。
まるで「一人二役」みたいに…
というか「一人二役」なんだよな。
そしてレイモンドのスペインの家が「一人用」のアパートであることにダメ出しして、そこの「ぼったくり大家」や「あくどい語学学校」のことにもダメ出しする。すぐに引っ越すべきだってね。
これはスペインで1492年に公布された「ユダヤ人追放令」のことだろうね。イベリア半島で長きにわたってイスラム勢力と戦ってきたスペインは、ユダヤ教も異教とみなすようになり、凄まじい迫害を行った。
レイモンドにつきまとってる「酒代も稼げないのに酒が手放せないバカ女」って誰のことなんだろうね?
やっぱりモデルがいるんでしょ?
たぶん「イゼベル」じゃないか?
異教の神を崇拝してて、「雨乞い対決」で預言者エリヤに面目丸潰れにされた王妃?
その通り。
「雨乞い対決」でエリヤに赤っ恥をかかされたイゼベルは、エリヤを目の敵にした。おかげでエリヤは逃亡生活を強いられる。
エリヤを追放したイゼベルは、その後も悪政を続けた。そして彼女は大酒飲みで、良質な葡萄畑を手に入れるためならどんな手段も選ばなかった。持ち主を殺してしまうこともね。
それに激怒したエリヤは、イゼベルに死の予言を下す。
「あの女は、犬に食いちぎられて死ぬだろう」
そしてイゼベルは、その予言通りに犬に食いちぎられるという悲惨な最期を遂げる…
犬に食いちぎられるって…
ここ重要だな。
レイモンドとエミリが会話している間に、チャーリーは旅支度を終える。
戸口に現れた時、なぜかチャーリーは「レーンコート」を着ている。
変やな。
この日は「晴れた日」やったはずや。
しかもこれからフライトやっちゅうのにレーンコートはないやろ。
たぶん、これのことだろうな。
《Transfiguration》Raffaello
うわ!
晴れてるのに「レーンコート」着てフライトしてるよ、この人!
「イエスの変容」だよ。
両脇にいるのがモーセとエリヤだね。
さて、チャーリーが玄関を出ようとした時に、レイモンドは荷物運びを手伝うと言う。
だけどチャーリーは「手伝いなんかいらんぞ。荷物はひとつしかないんだ」と答える。
このセリフもわざとらしいよね…
荷物が「ひとつしかない」ことを強調してる…
イエスが「フライト」に持って行く荷物といったら「ひとつ」に決まってるからな。
ああ、そうか!
「人間の原罪」だ!
出て行ったチャーリーをレイモンドは追いかけた。
チャーリーは「片手を半ば上げて」タクシーを探している。
レイモンドはチャーリーの背後から「名前を呼びながら」近づき、「うまくいくとは思えないよ」と計画への不安を訴える…
なんだろう?
どこかで見た気がする光景だな…
これだ。
《The Kiss of Judas》Francisco Salzillo
ああ!ユダの接吻!
しかもイエスが片手を半ば上げてる!
あの時ユダもイエスに「師よ」と呼びかけながら近づいたんだよね。
イシグロは『夜想曲集』において、いろんな有名絵画や彫刻をモチーフに使っている。
第1話『老歌手』では、さまざまなバージョンの絵画『受胎告知』を使っていたよな。
使う方も相当マニアックだけど、見つける方も相当変態チックだな!
ありがとう。褒め言葉として受け取っておくよ…
さて、レイモンドは不安を訴えているうちに「あること」に気付いて、こうつぶやく。
「なぜぼくなのか、わかったような気がする」
そしてチャーリーは涙を滲ませながら、ここに至った経緯を語る。
全てはエミリが自分に対して抱く「過剰な期待」のせいだと…
「あなたは頂上まで行ける人」だと、ずっと言われ続けてきたからなんだと…
ははは。そりゃ「イエス」なんだから仕方がない。
しかし、いちいち泣きながら言うことか?
大の大人が。
だってこの計画は「裏切り」の再演だからね。
チャーリーはエミリと付き合い始めた頃、別々に暮らしていた。
そしてチャーリーの親友レイモンドは音楽を通じてエミリと仲良くなり、彼女の部屋に入り浸るようになった。
ある時レイモンドはエミリに「なぜ早々とチャーリーに決めたの?君なら他にも言い寄って来る男はたくさんいるでしょ?」と聞く。
部屋で二人っきりの時にこんなこと聞くのは、裏心ミエミエだよな。
そうなの?
「ぼ、ぼくでもいいじゃないか!ガバッ…」っちゅうことや。
なんだよ最後の「ガバッ…」って(笑)
そんなことはお見通しのエミリは、レイモンドにこう言った…
「チャーリーをキープしてる理由はそれよ」
つまりレイモンドみたいに言い寄って来る男がウザいから、だとね。
レイモンドは呆然とした。
そしてエミリは笑いながら「嘘よ、チャーリーは私の愛しいダーリン」と言い、この回想はフェイドアウトする。
ホントかなあ。
『日の名残り』のミスター・スティーブンスみたいに、過去を美化して語ってる可能性も高い…
チューくらいはしとるやろな。
抱きついて。
それに気付いてチャーリーは危機感を覚え、エミリと同棲を始めたんだな、きっと…
このまま別々に暮らしてると、エミリのことが不安すぎるから…
ある意味、親友レイモンドの「裏切り行為」が二人の愛を深めたんだ…
それを再演しようというのだから、チャーリーもつらいはずだ。
だから男泣きせずにはいられなかったんだろう。またレイモンドに過ちを犯させるわけだからな。
ですね。
そうじゃないと涙の理由がわからない。
そしてチャーリーは考え事をしながら、ひとりでスタスタ歩き始めてしまう。
「スーツケース」を置き去りにしたまま。
慌てたレイモンドは、スーツケースを引っ張りながら、後を必死に追う。
イエスが大事な荷物「原罪」を置いてっちゃった(笑)
そしてそれをユダであるレイモンドが必死で運ぶ…
完璧やな。
しかもレイモンドは「スーツケースを他の歩行者にぶつけずに跡を追う」んだ。
裏切りという大罪を、たったひとりで背負ったユダか…
ちょっとカッコいいな…
さすがはノーベル文学賞作家だよな。うまいこと作られてる。
そしてレイモンドは計画の実行を決意し、チャーリーに感謝されながらタクシーを見送る。
フラットに戻ると、エミリの様子が180度変わっていて、高齢者でも労わるかのようにレイモンドをもてなしてくれた。
そして、つらく当たったことを謝り始める。
レイモンドのことを見ていると「当時のわたしたち」に戻ったみたいな気分になってしまうからだとエミリは説明する。
意味深やな。
だね。
レイモンドは「当時のわたしたち」という言葉で、さっきのチャーリーとの会話を思い出し、少し呆然としてしまう。
その反応を見たエミリは自分の言動を恥じ、おもむろにテーブルの上に「ビスケットを並べ」始める。
「何列も」ね…
ん?
どゆこと?
めっちゃ不自然やな。
なんか他の意味があるんやろ。
恐らく、これのことだろうな。
なにこれ?
マーブルチョコ?
マーブルチョコはリングやろ!
(画像:Amazonより)
ち、違う…
あれは「アロンの胸当て」だ…
アロンの胸当て?
出エジプトの際に、神の指示でアロンが身に着けたと言われる「聖なる胸当て」だね。
神に代わって裁きを下す者の必須アイテムとされ、以後ユダヤの地では、高位の聖職者が裁きを行う時に必ず装着するものとされた。
お菓子みたいに見えたのは宝石なんだ。
イシグロは、これをビスケットに見立てたんだね。
ちなみにこの宝石は「הָאוּרִים וְהַתֻּמִּים」と呼ばれる。
なんて言ったかわかんない!
おお、すまん。
お前たちはヘブライ語を知らないんだったな。
英語にすると「Urim and Thummim」、日本語に訳すと「光と真実」だ。
ああ!
コール・ポーターの回で出てきたイェール大学の校章だね!
そういえば、レイモンドは小説の中で「レイ(Ray)」っちゅう愛称で呼ばれとるけど、「ray」は「光」っちゅう意味やったな。
「一条の光」みたいな「線状の光」や。
そうだね。
さて、エミリは「当時のわたしたちに戻ったみたい」と言ったことにレイモンドが乗ってきてくれなかったので、恥ずかしくなってしまう。
「あなたがいまでも昔のままだと思い込むなんて、わたしはばかね」
そして一方的にレイモンドが変わってしまったと決めつけ、話を進める。
「あなたは時代に置き去りにされてしまったんだわ。いま、断崖絶壁に立っていて、ほんの一押しでひび割れてしまいそう」
レイモンドは「それを言うなら《ひび割れる》じゃなくて《落ちる》だろう」と突っ込む。
でもエミリは「言い間違い」を認めない。レイモンドが再度「言い間違い」を説明するが、彼女は頑として認めない…
あやしい!
なんだこのやりとり!?
この絵のことを言ってるのだ。
よく見ろ。ひび割れた断崖絶壁だろ?
おお!確かに!
アロンの次は弟のモーセか!
エリヤのネタを引用したり、モーセやアロンを引用したり、エミリの頭の中は「旧約聖書」のことでいっぱいなんだね。
だからレイモンドに昔のままでいてほしかったんだ。師イエスを間違っていると考えたユダのようにね。
チャーリーと上手くいかなくなるわけだな。
どひゃ~!
そしてエミリは、どうしても出なきゃいけない会議があるからと言い、レイモンドに留守番を頼む。
夕食は自分が帰ってきてから作るので、その間ゆっくりしてて、とね。
スペインの自分の部屋では「現実」に圧し潰されてしまうレイモンドだけど、二人の部屋だと「現実」を忘れられてリラックスして過ごせた。
そして、女流作家ジェーン・オースティンの小説『マンスフィールド・パーク』を読みながら、レイモンドは眠ってしまう…
「人間の土地・公園」?
そう。駄洒落になってるんだよね。
神の世界から見れば、地上世界はまさに「Man's field Park」だから。
ちなみに『マンスフィールド・パーク』のラストは、主人公の娘ファニーが、金持ちでイケてる夫と別れ、昔から密かに好きだった貧乏な男エドマンドと結ばれる…というものだ。
あわわわわ!
これも意味深じゃんか!
まったくいろんな伏線を張ってくれるよね、イシグロは。
しかも劇中の小説タイトルひとつに、こんな風に「二重の意味」を込めるなんて…
でも、おかえもんの「深読み」って可能性もゼロではない…
そうかな?
さて、二十分ほどして目覚めたレイモンドは、家の中を探索する。
チャーリーとランチに行ってる間に、あれだけ荒れ果てていた大広間は、塵ひとつ無いくらいにすっかり綺麗になっていた。
そして「デザイナー家具」や「芸術的なオブジェ」が置かれている。
この家は「エルサレム旧市街地」に見立てられているから、「塵ひとつない大きな居間」というのは…
「惨事」のようだった大広間が、すっかり綺麗に…?
そしてデザイナー家具や芸術的なオブジェが…
もしや、ここのことでは…
し、神殿の丘~!?
だろうな…
かつてユダヤ人が建てたエルサレム神殿はバビロニアに破壊され、再建したと思ったらローマ人に破壊された…
その後すっかり綺麗にされ、現在は岩のドームや銀のドーム、そして大小さまざまなオブジェがある。
そしてレイモンドは、棚に置かれているCDをチェックする。
ロックやクラシックばかりでレイモンドはがっかりするが、よく探してみたら、昔エミリと聞いていた音楽も発見できた。
「フレッド・アステア」
「チェット・ベイカー」
「サラ・ボーン」
のCDが3枚だけね…
これもなんか意味があるの?
もちろん。
しかし最近は「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」表記がイケてるっちゅうて、猫も杓子も「ヴーヴー」言うとるよな。
昔は「ベネチア」と四文字で済んだところが「ヴェネツィア」とか1.5倍になっとる始末や。
その点イシグロとツッチーのコンビは、気持ちええくらいに「バビブベボ」を貫いとる。
ここでも「サラ・ボーン」やしな。
実にええ心掛けや。
何なんだろうな、あの「ヴ」だけ異様にこだわる現象は。
意味がまったくわからん。
それよりも「R」と「L」を書き分けるカタカナ表記を考えたほうがよっぽど日本人のためになる。
でも、今どき「サラ・ボーン」で検索しても、おじいちゃんのブログしか出て来ないぞ。
やっぱりサラ・ヴォーンでしょ。
Sarah Vaughan《Just Friends》
ナイスな選曲だね。この短編にピッタリだ。
さて、なぜイシグロが「サラ・ボーン」の名前を使ったのか?
それには、この「ヴォ or ボ」の表記問題も関係してる。
へ?
実はこれ、「Sarah born」の駄洒落なんだ。
だから「ボーン」という表記のほうが好都合だったんだね。
ボーン?
新旧聖書の民は、みなアブラハムの妻「サラ」の子孫だ。
「サラ」から生まれた子だから、「サラ・ボーン」というわけだな。
そんなのあり~!?
ありだね。
イシグロはこういう駄洒落が大好きだから。
ホントかよ!
「チェット・ベイカー」だって駄洒落だよ。
「baker」だからね。
Chet Baker《Time After Time》
パン屋さん?
ああ!わかった!
イエスは「最後の晩餐」で「パン」のことを「これはわたしの肉体」と言ったからだ!
それもあるけど、「baker」には全く違う意味もあるんだ。
「死刑執行・電気椅子」ってスラングでもあるんだよね。
ええええ!?
電気椅子で死刑になると、肌や髪が「こんがりと焦げる」からね。
だから電気椅子と死刑執行人をを「The baker」って呼んでいたんだ。
それをユダであるレイモンドが見つけるところがブラックジョークだな…
そして極めつけが「フレッド・アステア」だ。
『ファニー・フェイス(パリの恋人)』でケイ・トンプソンと踊ってたオジサンだね!
《Clap Yo' Hands》Kay Thompson&Fred Astaire
「Fred Astaire」じゃ駄洒落にならんやろ?
見当つかんわ。
「フレッド・アステア」は暗号になってるんだよね。
イシグロのとんでもないメッセージが隠されてるんだ…
暗号?
メッセージ?
カヅオ!
お前それでもスパイか!
「008」はコードネームやのうて算数のテストの点数やろ!
ば、バカにするなよ!
俺はれっきとしたチャンネル諸島のスパイ008だ!
この人たちじゃアテにならないから、答え教えてくださ~い!
じゃあ「Fred」を逆さまにして「Astaire」をちょっとだけ並び替えてごらん。
逆さま?「Derf」?
どゆ意味?
「大胆な」とか「とんでもない」という意味だ。
「Astaire」のほうは、ちょこっと並び替えるんやったな…
ちょこっと…
As a tire...?
タイヤみたいに大胆?
なんだそれ(笑)
じゃかあしいわ!
そんならお前が考えてみい!
わっかりませ~ん!
「Astaire」の「ta」を逆にするところまでは合ってたんだけど、区切るところが惜しかったね。
「A satire」なんだ。
うんうん。
「satire」とは「権威に対する皮肉・風刺文学」という意味なんだ。
うんうん。
だから「Fred Astaire」は「A derf satire」と並び替えられて…
「とんでもない風刺文学」
とか
「権威への大胆な皮肉」
という意味になるんだ…
マジかよ!ありえん!
それが「ありえる」んだ。太宰じゃないけど。
ほらね。
うひゃ~!
イシグロ△~!
そこにシビれる!あこがれるゥ!
そんな完ドメな褒め言葉じゃ、英国人には通じんな。
さすがのグーグル様でも翻訳しきれんだろうし。
それに英国紳士のイシグロにとって、そういうノリは嫌悪の対象に違いない。
いよいよクレームが来るかもしれんな…
え…
じゃ、じゃあ…
親愛なるミスター・イシグロ様…
私たちはあなたを心より尊敬しております…
ですから寛大なるお心で何卒お見逃し下さいませ…
かしこ。
そういえば…
当の本人は、これを見てるのかな…
何言うとんねん。
話題沸騰の本シリーズを知らんわけないやろ。
どっかの知らん外国人からも「great ! amazing !」って言われるくらいや!
そんなプレッシャーかけないでくれよ。
意識しちゃうじゃないか…
そんなこと1ミリも思ってないくせに。
さあ続けようぜ。
——つづく——
『夜想曲集』(@Amazon)
カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
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