第8話 「シンガポールで合掌」
岡部八郎
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おしゃべりエッセイ、『SO!SO!』へようこそ。
おかはち、です。
もう15年前のこと。親父とテレビのニュース番組を見ていた時。ニュースキャスターが『戦争で亡くなった方の遺族の方々が、ことしも戦没者慰霊団としてフィリピンへ向かいました』としゃべりはじめました。それを聞いて、親父は僕のほうを見て突然こんなことを言いだしたんです。
「おい、シンガポールっていうところは、遠いとや?行きたいっちゃけど」
え?僕は耳を疑いました。
シンガポール?
なぜ?
なぜシンガポール?
親父は84歳だし、パスポートは持ってないし、なぜ?なぜが頭の中をぐるぐる回っていると、父は静かに話を切り出したんです。
「うん、おれのアニキ、つまりおまえのおじさんが、昭和20年終戦の直前にシンガポールで戦死してな、テレビの戦没者の話を毎年聞くたびに『一度でいいから、兄さんがなくなった場所まで行って手を合わせたい』とずーっと思いよったったい」と語り始めました。
「兄貴が戦死したとき、家に電報が来てな。そこには、たった1行だけ『シンガポール ブキテマ125高地にて戦死』とだけしか書いてなかった。その字を見ながら、親父とおふくろは肩をゆらせながらずーっと泣きよったとぞ。テレビの戦没者のニュースを毎年見るたんびに、いつかそこへ行きたい、ってずーっとおもいよったったい。どげんや?遠いとや、シンガポールは?」
それからです。
シンガポールのブキテマの場所を調べ、親父のパスポートを取り、旅行会社にシンガポール行きを手配したのは。向かう場所は、ブキテマ125高地、つまり125フィートの丘で戦死しただろうということしか手掛かりはないのです。
SO!SO!
その時は、行って探す日数が3泊4日しかなかったんで、現地で日本語が話せるシンガポールの運転手さんを、先に手配してもらい飛びました。
シンガポールのチャンギ空港に降りて、最初に向かったのは日本人墓地公園。戦死した兵士たちの無縁仏に手を会わせ、そのあと、いよいよブキテマ125高地あたりへ向かいます。
日本語をしゃべる現地ガイドさんの話では、「ブキテマは、いまはマンションがいっぱい、でも昔はうっそうとしたジャングルだった。」そんななか、日本軍は隣のマレーシアから5万台と言われた自転車の部隊、銀輪部隊を連ねて続々とシンガポールに入り攻略していったそうです。
運転手さんは、緑あふれるブキテマ公園の前で車を停めてくれました。「たぶん、ここがブキテマ125高地あたり」と親父の顔を見る運転手さん。
親父は、静かに降りて、公園から海が見える方向へ立ち、「おい、一緒に並ぼうか」と僕を促し、二人で戦死したおじさんへの供養を込めて長い時間、手を合わせました。あまりにもながい時間だったので、僕は横で手を合わせている親父の横顔をそっとみました。するとどうでしょう。いままで一度も見たことのない親父の、それはそれは、おだやかな顔がありました。そのとき、僕はやっと気づいたんです。
「オヤジの戦争は、いま、たったいま、やっと終わったんだ」と。
それから、数年して親父は天に昇り帰らぬ人となりました。
きっと、いまごろ、天国のおじさんに会って、うれしそうに話しているんだろうなぁー。
戦争が終わって大工になったよとか、こどもが3人もおるぞとか、
シンガポールに行ったとき、供養だから飲もうと、
息子と一緒に毎日飲んだウィスキーがうまかったぞとか。
兄弟想いの優しい親父を思い出しながら、
今夜も僕は飲むでしょう、想い出のあのウィスキーを。
おしゃべりエッセイ、『SO!SO!』
おかはちでした。
おかはち、です。
もう15年前のこと。親父とテレビのニュース番組を見ていた時。ニュースキャスターが『戦争で亡くなった方の遺族の方々が、ことしも戦没者慰霊団としてフィリピンへ向かいました』としゃべりはじめました。それを聞いて、親父は僕のほうを見て突然こんなことを言いだしたんです。
「おい、シンガポールっていうところは、遠いとや?行きたいっちゃけど」
え?僕は耳を疑いました。
シンガポール?
なぜ?
なぜシンガポール?
親父は84歳だし、パスポートは持ってないし、なぜ?なぜが頭の中をぐるぐる回っていると、父は静かに話を切り出したんです。
「うん、おれのアニキ、つまりおまえのおじさんが、昭和20年終戦の直前にシンガポールで戦死してな、テレビの戦没者の話を毎年聞くたびに『一度でいいから、兄さんがなくなった場所まで行って手を合わせたい』とずーっと思いよったったい」と語り始めました。
「兄貴が戦死したとき、家に電報が来てな。そこには、たった1行だけ『シンガポール ブキテマ125高地にて戦死』とだけしか書いてなかった。その字を見ながら、親父とおふくろは肩をゆらせながらずーっと泣きよったとぞ。テレビの戦没者のニュースを毎年見るたんびに、いつかそこへ行きたい、ってずーっとおもいよったったい。どげんや?遠いとや、シンガポールは?」
それからです。
シンガポールのブキテマの場所を調べ、親父のパスポートを取り、旅行会社にシンガポール行きを手配したのは。向かう場所は、ブキテマ125高地、つまり125フィートの丘で戦死しただろうということしか手掛かりはないのです。
SO!SO!
その時は、行って探す日数が3泊4日しかなかったんで、現地で日本語が話せるシンガポールの運転手さんを、先に手配してもらい飛びました。
シンガポールのチャンギ空港に降りて、最初に向かったのは日本人墓地公園。戦死した兵士たちの無縁仏に手を会わせ、そのあと、いよいよブキテマ125高地あたりへ向かいます。
日本語をしゃべる現地ガイドさんの話では、「ブキテマは、いまはマンションがいっぱい、でも昔はうっそうとしたジャングルだった。」そんななか、日本軍は隣のマレーシアから5万台と言われた自転車の部隊、銀輪部隊を連ねて続々とシンガポールに入り攻略していったそうです。
運転手さんは、緑あふれるブキテマ公園の前で車を停めてくれました。「たぶん、ここがブキテマ125高地あたり」と親父の顔を見る運転手さん。
親父は、静かに降りて、公園から海が見える方向へ立ち、「おい、一緒に並ぼうか」と僕を促し、二人で戦死したおじさんへの供養を込めて長い時間、手を合わせました。あまりにもながい時間だったので、僕は横で手を合わせている親父の横顔をそっとみました。するとどうでしょう。いままで一度も見たことのない親父の、それはそれは、おだやかな顔がありました。そのとき、僕はやっと気づいたんです。
「オヤジの戦争は、いま、たったいま、やっと終わったんだ」と。
それから、数年して親父は天に昇り帰らぬ人となりました。
きっと、いまごろ、天国のおじさんに会って、うれしそうに話しているんだろうなぁー。
戦争が終わって大工になったよとか、こどもが3人もおるぞとか、
シンガポールに行ったとき、供養だから飲もうと、
息子と一緒に毎日飲んだウィスキーがうまかったぞとか。
兄弟想いの優しい親父を思い出しながら、
今夜も僕は飲むでしょう、想い出のあのウィスキーを。
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おかはちでした。
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