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ラブファントム
LOVE PHANTOMの前奏くらい長い上司の説教を経て、あたしは駅のホームに立っていた。
もうムリ。会社辞めたい。
またミスした。しょーーーもないミス。
自分が思ったより「できない奴」だったからやる気が出ないのか、やる気がないからどんどん「できない奴」になっていくのか。
好きではない仕事にやりがいを見出すこと、己の無能さを認めること、この2つは満員電車で自分の席を見つけることより難しい。
やっぱりてきとーに就活したのがいけなかった。
「あたし?そこそこ給料が良くて安定してたら仕事内容は問わないかな。やっぱり女には限界があると思うの。だからやっぱり早めに寿退社して、パートとかで良いから働くママになりたいかなっ。それでねいつも綺麗にして、旦那さんとはずっとラブラブなの」
殴りたい。大学4年のあたし。
なぁーにが寿退社だよ相手もいないのに!
『だいじょぶ?』
ピロンとLINEの通知音がして文字が表示された。同期の四宮だった。すぐに通話ボタンを押す。
「大丈夫じゃなぁーい!しのみや〜!!」
「わっお前急に電話すんなよ。まだ会社だったらどうすんだよ」
「まだ会社なの?」
「や?もうすぐ駅…」
駅のホーム。視界1m先に四宮のすらりと長い足が降り立って、もうあたしは彼のことしか見えなくなる。あたしと目が合った四宮は、眉を下げて、笑った。
「どしたんだよお前ぇ。泣きそうじゃん!」
「四宮ぁ」
「はいはい、話聞いてやるから」
流れるようにあたしのすぐ隣に立ち、一瞬きちんと目を合わせて「一緒に帰ろ」と言った彼。ちゃんとこういうことをいちいち言ってくれるところも、好き。
まさに急転直下。まっさかさま。
大学時代から惰性で長く付き合っていた彼氏がいたのに、この会社に入って四宮と出会って仲良くなって、あれよあれよと言う間にあたしは恋に落ちてしまった。
元彼?知らない。四宮がいれば良い。
「あぁ、もう、このまま飲みにいきたい」
「無理じゃんコロナだから」
一瞬であたしたちの生活に入り込んだ新参者の新型ウイルスが憎い。四宮の形の良い唇を隠すマスクが憎い。
ここで軽く飲みに行けたら。「同期だから」を武器にもっと気軽にご飯に誘えたら。
あたしたちは今頃簡単に、さくっと「恋人同士」になっていただろうに。
ねぇ四宮。そしたら四宮は、あたしに告白してくれる?幸せにしてくれる?あたし、あと少しなら我慢できるよ。あたしを寿退社させて。この地獄から救い出して。
23歳で結婚かぁ。インスタになんて書こう。まずは【ご報告】だよね。そんでそんで、「婚姻届」の表記の上に指輪を1文字ずつ区切るように置くでしょ。婚・姻・届、ってなって…
「近くに電気屋ってあったっけ?」
「赤月駅にあったよ」
「赤月かぁ。途中下車するか」
四宮は去年の入社時から、会社から5駅先の白台駅で一人暮らしをしている。実は地方出身なのだ。あたしはさらにそこから乗り換えをした先、黒崎駅にある実家に住んでいる。赤月駅は四宮の家までの間にある中途半端に栄えた街だ。カラオケはないけどゲーセンがあり、大学はないけど小学校はある程度に。
「あややも来る?」
あたしの名前が「二階堂彩」なので、ふざけてあややと呼び出した四宮。ふざけたあだ名だし最初は呼ばれるたびに突っ込んでいたけれど、今ではそのくすぐったさを放置している。
「んん…えぇー?…じゃあ行こうかな」
もったいぶって答える。これが付き合う前のイチャイチャ期間ってこと?
ねぇ四宮。会社とか他の同期の前ではあたしのこと、「ねぇねぇ」とか「あのさ」って呼ぶよね。あややって言わない。隠れて内緒のあだ名で呼び合うカップルみたいって嬉しくなるよ。これはもう、そういうことだよね?はしゃいじゃってよいのかな?
「何買うの?」
「ドライヤー。今実家から持ってきたやつ使ってんだけどさ、朝セットしにくいんだよ。俺デコ広いから」
ほんとだ広〜い。キャッキャと笑うあたしの額に、すっと四宮の手が置かれた。前髪越しだけど。
「あややは狭いね」
低い声に、ドキッッとした。
人間の心臓が、額になくて良かった。
きゅ、急に顔面を触る?!やっぱり四宮、女慣れしてるのかな…
「どっ、どれくらい?!」
「え?」
「どれくらい狭い?」
あっ、変な質問しちゃった。
慌てふためくあたしに気付いてるのか気付いてないのか、四宮は、んーと考える仕草をして、
「あややの上司の器くらい?」
どんなにつまらないあたしの質問も、楽しい会話にしてくれる。
「そこまで狭くないわ!」
「じゃあ6畳一間くらい?」
「確かに上司の器の方が狭いな」
「じゃあKALDIの通路くらい?」
「わかる!狭いよね」
「でもKALDI楽しいよね〜」
「わかる〜」
いつまでも話していたい、と思った。
その日は四宮が新しいドライヤーを買うのに付き合って、帰りにアイスをおごってもらって、駅前のベンチで食べた。
「あややはなんでこの会社選んだの?」
就職先を「選んだ」という言い回しが出てくる四宮が羨ましいと思った。四宮は選んでここに来たんだ。あたしは就活がうまくいかなくて、とりあえず「社会人」になりたくて、ここに滑り込んだだけだ。
「んー、本当はやりたいことあったけど、まぁ無理だし安定してたらいっかなーみたいな」
「何やりたかったの?」
「……音楽に関する仕事かな」
「へえ!音楽に関する仕事って、たとえば?」
答えられなかった。
ぼんやりとした、音楽に関する仕事に就いて好きなことをしている自分でいたいって気持ちだけで、具体的な努力をしていなかった。ただ、レコード会社とか音楽レーベルとかイベント会社とか、エントリーシートを出しては軸のない気持ちをぶつけて落ちて、一貫性のない就活を続けた。
音楽を好きな気持ちは本物だったけど、それで世の中の役に立ちたいとかはないし、条件が悪くても仕事にしたいほどの情熱かと言われると自信がなかった。
だから途中から方向転換して、「なんでも良いから腰掛けで就職して結婚したいなぁ」って、さも本当に思っているかのように友人には言っていた。
そうだ。本当は、仕事内容なんでもいいなんてこれっぽっちも思ってなかったくせに。自分と向き合うことから、自分の好きな仕事をするための努力から、逃げただけのくせに。
「…なんか色々。あまり仕事の種類にはこだわらず色々見たけど、結局あたしには向いてないなって」
「そうだったんだ」
その時の四宮の顔に、見下しが混じっていた。
あ、コイツ、何も考えてないな。
コイツ、向いてないわ〜とか上から目線で言ってるけど、面接落ちまくっただけなんじゃないの?
…そんな思考が透けて見えるようで、アイスを食べているのに耳がカッと熱くなった。
残念でした。面接落ちまくってませーん!!
エントリーシートの時点で落ちまくって面接にすら行けてませーん!!具体的なビジョンもなく大手企業にばっか応募してたからね!!!!!!
バカにするんじゃねぇよ!!
音楽業界は狭き門なんだよ!!!!
心の中で四宮に毒づく。
あぁ。
結局好きな人であっても、あたしはあたしをバカにする人には毒づくんだ。
なんだこれ。なんだこれ。
また間違った。
あたしは四宮と付き合いたいし結婚したいけど、喉から手が出るほどに彼が欲しいと思っていたけれど、実は別に好きなわけじゃないんだ。
彼と付き合って一緒にここに行きたいとか、こうしてあげたいとか、結婚してどういう結婚生活を送りたいとかがないんだ。
就職も、恋愛も、あたしは手に入れた時がゴールで、今の物足りない現実から救い出されたいだけで、その先の具体的なビジョンがない。
本当は何も好きじゃない、つまらない人間なのかもしれない。
ゾッとするよ。
ぶるっと身体が震えて「アイス食べたから冷えたね」とあたしは笑顔で言った。あたしの笑顔を見て四宮はいつもの調子に戻って、「どれくらい冷えた?」と聞いてきた。
「今日あたしがミスした後の職場の空気くらいかな」
へらりと笑う。
なんだこのつまんない会話。
もういらないよ。
おしまい