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楽譜読書会:ストラヴィンスキー『春の祭典』

自分の心が満足するとはどういうことなのかをときどき考える。

若い頃は、「自分の心の満足なんて、それは自己満足って奴だろう」という意見を論破できなかった。そして、自分の心に足枷を付けるように、それを無理やりにでも避けなければいけないことだと思っていた。

けれども、『初心者のための楽譜を見ながら聴くクラシック音楽』の最終回、ストラヴィンスキー『春の祭典』の読書会に参加して、いまの私の心はなぜか晴れやかだ。そしてとても満足している。


猫町倶楽部が主催する楽譜読書会『初心者のための楽譜を見ながら聴くクラシック音楽』は、"初心者のための"と謳っている通り、楽譜を読めない人を対象にしている。

楽譜を読める人も「参加者の大半が楽譜が読めない初心者であること」「レクチャーがそのような方を対象にした内容になること」を承知しての参加となる。

猫町倶楽部では、2022年12月18日に開催された先行トライアル『音楽を見るー”初心者のための”楽譜を見ながら聴くクラシック音楽』を含め、今回の『春の祭典』までに計7回の楽譜読書会が行われてきた。

2021/12/18:ベートーヴェン『 交響曲第5番 ハ短調 作品67 (運命)』
2022/03/05:バッハ『アナリーゼの技法 バッハ/インヴェンション』(鵜崎庚一)
2022/05/05:ショパン『ピアノ協奏曲第1番 ホ短調』
2022/07/02:ブラームス『交響曲第1番 ハ短調 作品68』
2022/09/10:チャイコフスキー『 交響曲第6番≪悲愴≫ロ短調 作品74』 2022/12/10:ベートーヴェン『交響曲第9番 ニ短調 作品125 (合唱付)』
2023/03/18:ストラヴィンスキー『春の祭典』

「クラシックの楽譜なんてそもそも見たことないよ~」という気持ちの人も少なくない私たち参加者が、まがりなりにも課題本として指定された楽譜を入手し、音源で音楽を聴き、音楽に合わせて楽譜に目を通してきたのだ。

そして、一連の楽譜読書会の最終回、参加者の私たちはストラヴィンスキーの『春の祭典』を聴き、楽譜を《見て》参加した。自己満足と言わようとも、実際は楽譜が《読めていなくとも》いい。私はとても満足している。

おそらくストラヴィンスキーの『春の祭典』の総譜を最初から最後まで目を通したことがある人は、旧約聖書・新約聖書を通読したことがある人よりも少ないだろう。いわゆる3σ、99.73%の外側に降り立った気持ちだ。

That's one small step for mankind, one giant leap for us.

(人類にとってはほとんど意味のない一歩でも、私たちにとっては大きな一歩なのです)

それは単なる自己満足かもしれない。それで構わない。少なくともその気持ちは私を満たしてくれる。新しい一歩を踏み出せた喜びに満ちている。新しい未来が拓けていくような気持ちにさせてくれる。

その寿ぐような気持ちは、《わかる》という気持ちや、面白いと思う気持ち、興味深いと感じる気持ちと同一線上にある。理解という(幻想の)終着点で判断するのではなく、道がつながっていく喜びもあるのだ。

それになにより、《わかった》という気持ちは複雑で、プロセスと感情と状態が混在した曖昧な認識だ。それはとっかかりやひっかかりを手掛かりにして漸進的に変化していく。《わかった》⇔《わからない》⇔《わかった》⇔《わからない》という反復した中で自分の中に生まれる感情、それが《わかる》ということの本質だと思う。

だから私は、普段、《わかりたい》という言葉を使わない。《わかりたい》という欲望は、複数の状態を往復しながら少しずつ自分が変化していくプロセスに対して、なんらかのゴール・到達点があるかのように夢想してそこに到達したいと思っている言葉だからだ。

《楽譜を読めるようになる》という言葉も同様で、何をもって読めたといえるのか、何をもって読めるといえるのか。楽譜も言語だから、そこには読書と同じような本質的な問いが紛れ込んでいる。

The importance of these events is not so much to read them, as to take part.

(楽譜読書会とはまさに参加することに意味がある)

なぜ、『春の祭典』のアフターブログなのに、『春の祭典』自体について書いていかないかという理由もそこにある。言いたいことは、"私はいまそのプロセスの中にある"ということだけなのだ。


もちろん、いろいろな気づきが、読書会として他の人と話し、その後に行われた小室哲幸さんのレクチャーを聞くことで私の中に生まれた。

6連符と7連符なんてどうやって演奏するんだ。割り切れないじゃないか!というムンクの叫び。しかも、聞こえてくるのは下降音型なのに上昇音型も重ねてどういうこと!という気持ち。そして、それは二つの美しく響く和音を重ねることによって生まれる効果と同じタイプの設計なのだという説明から来る納得感。

初演のニジンスキーの振り付けが「音楽とあってないんじゃね?」と感じた自分の違和感が、「あれは、音楽と振り付けが見合ってないですよね」という言葉を聞いたときの「ですよねぇ~」という安堵感。

なんども楽譜のどこが演奏されているのかわからなくなってしまい、次の曲が始まっておいついたよねとか、楽譜が小さくてみえねぇ~という共感。

この曲をフーリエ変換して処理したいという感想と、それは複数の和音の重ね合わせだという説明や全曲を通してレシミシという3度と4度の動きが繰り返されているということとが意味的に矛盾していないこと。エントロピーの振動という感覚と、譜面の見た目の拡大と収縮。楽譜の見た目のブロック構造とリズムの加算・減算という処理。

通常の読書会以上に読書会らしい読書会の時間だったと思う。


考えてみれば、アナリーゼを授業で求められる音大生ならともかく、まったく楽譜に慣れ親しんでいないことを前提とした楽譜を対象とする読書会なんて、猫町倶楽部だけでなく、世界に存在するあまたの読書会の中でも、とてもユニークで挑戦的な試みだったのではないだろうか。

そもそもそんなイベント、真面目過ぎたらできないし、できるとも思わないのが普通だ。その普通を私たちは無謀にもやすやすと乗り越えてしまったのかもしれない。それが私の中の満足感の理由なのだ。

墓標を越えて進め!

威勢のよいことを言ってみたくもなる。

といいつつ、私は反復練習好きでもあるので、IMLSP(International Music Score Library Project (国際楽譜図書館事業))のサイトにアクセスし、自分に合いそうな楽譜を探してもいる。pdfだと印刷のようには音符がつぶれてないし、今回のストラビンスキーの楽譜は楽譜の文字や音符が潰れて見にくかったのだ。

ちらっとマーラーの交響曲1番を探して冒頭部分のスコアを眺めてみたら、今回のストラビンスキーの『春の祭典』に比べるとずっと音符が追いやすい感じがした。

それはある意味、ネットで動画を倍速で観てから1.5倍速で観るとあまり速く感じなくなるあの感じに近いかもしれない。これもきっと”春の祭典効果”と呼んでよいものだろう。

しかも、一連の楽譜読書会を振り返って、特に"春の祭典効果"を認識した上で思うのは、スコアを追いながら音楽を聞くことができるようになるためには、何かの楽器が弾けるようになる必要はなく、英語と同じで、自分ができるレベルよりもちょっと下のレベルのものから始めて、ただ、大量に音楽を聴きながら楽譜を読むだけでも、ある一定のレベルには到達できるのかもしれないという気持ちだ。

また、"春の祭典効果"で実感したのは、スコアを追いながらとはいいつつ、音が鳴ってからではなく、音が鳴る少し前の部分の楽譜を視野にいれながらでないととても追いつけないという感覚。

だとしたら、きっと、私には行進曲ぐらいの単純さが私の今の身の丈にはあっているかもしれない。『星条旗よ永遠なれ』みたいな旋律がわかりやすい曲なら、Apple music × IMSLPで読譜の練習ができるかも・・・。そんな気持ちも生まれくる。

ああ、でも、『春の祭典』を見てしまったいまとなっては、『星条旗よ永遠なれ』では心が満足できないできないかもしれない。。。 困ったものだ。

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