読書会の効用:流して読む力
3年ほど前から読書会によく参加している。おかげで読書量が高校時代並みに増えた。
読書会の楽しみ方はいろいろ、読書会に何を求めるかも様々だと思う。読書会に参加することで、他の人と本について話す面白さに気づいたという人もいるだろうし、話すことで自分にはなかった視点や気づきが得られたという人もいる。読書会は本を本を読む喜びを倍加させてくれる。一人で本を読んでいたときには気づけなかった、そして分かろうとしなかった本の楽しみかただ。
私はその他にもメリットがあると思う。私が特に挙げたいのは2つ。《流して読む力の向上》と《味わって読む力の向上》だ。
《流して読む力》は独学大全《技法35:掬読》のバリエーションだ。掬読、つまりSkimmingは、本来、テキストの中から必要な部分だけを選びだし読む技術であり、その極意は「テキストの必要なところだけを(まずは)読めばいいと割り切る」点にある。テキストは最初から順番にという思い込みを脱することがコツで、『独学大全』にも書かれているように、それだけでも読書はずっと楽で楽しいものになる。
でも、なぜあえて《バリエーション》かというと、《掬読》は、「書かれていることを全て理解したい」という読書願望、あるいは精読主義といってもいいかもしれないけれど、に対する守破離の極意でもあるからだ。つまり、読むという行為は守りつつ、古典的な読書への思いの殻を破り、そしてそこから離れることを目指す。
「なんのこっちゃ?」である、とは思う。頑張って説明しよう。たとえば、ここにカント『純粋理性批判』がある。
カント『純粋理性批判』をSkiminng? 無理・むり・ムリの三段活用。精読しようったってそうはいかない。少なくとも私にはできない。
でも、流して"取りあえず"読むことは可能だ。「ああ、わかんなかったぁ~」でいい。読書会までに頑張ってとりあえず字をみる。読書会でも「わかんなかったねぇ~」を共有する。もちろん、わかろうとする努力はするよ。でも、わからないものはわからない。仕方がない。
でもさ、そうやって読みすすめているうちにふと気づくんだよ。たとえば、第一版の序文の冒頭、わっかんないねぇ~と言いながら読んでいた。けれどそこを本を読みすすめた後に改めて読むと、無茶苦茶、格好いいことがわかる。こんな感じ。
痺れないだろうか? 理性、認識の奇妙な宿命? 理性の悩み。理性の本性に課されるもの? しかも、それは理性の咎ではない?
推理小説であれば、いきなり殺人事件が起きたような冒頭だよ。もちろん、犯人や動機、トリック等については、その後を読んでも分かったような、わからないような気にはなりますよ。でも、なんか清々しい気持ちになっている。「わからないままに、一緒に読書会に参加する人たちとここまで読みすすめてきたけれども、それでいいじゃない」って思える。
それは、《流して読む能力》が、読書会への参加という強制力によって鍛えられたからだ。しかも、主観的にはね、自分にとって石を喰ってるような文章を、頑張って《流して読む》レベルでも時間をかけて付き合っているとみえてくることがあるんだ。それは、他の本がとても親切でわかりやすく、ほのぼのとしていること。「もう、いまだったら何でも来い!」というぐらいに気持ちが大きくなる。もちろん、それは錯覚だけど、でも耐性は付く。
ややこしや~の本を一人で読むのは辛い。分からない自分、読めない自分がいけない気持ちになる。他の人はみんな分かっていそうな気持ちで落ち込む。ほら、あの試験を受けるとき、自分以外のみんなが頭良さそうにみえる感覚。でも、読書会で話してみると、みんなが「あちゃ~」っていうほど分かっていなかったことがわかる。
流行の言葉でいうとそれもまたネガティブ・ケイパビリティ。《流して読む力》が向上するとは、「わからないけど、いいや」と思いながら、雪山をラッセルするように進む力だ。
もちろん、「それでいいのか?」という批判は甘んじて受けよう。真面目な学徒はそれではいけない。ダメな大人の出来上がりである。でもね、もうどうせダメだから。ダメな大人だから。いまさら、どうにもならないから。進歩とか前進とかないから。少なくとも私や大多数の大人の人は。
だからいいよ、流して読もう。それでも、その力はちょっとだけ向上っていうか、まぁ、慣れる。耐性がつく。それが読書会の効用のひとつ、《流して読む力の向上》だ。
えっと、《味わって読む能力の向上》については、また別記で。