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パリピ孔明3段活用
『パリピ孔明』というアニメは、2022年第2クール(春アニメ)では上位に入る面白さだったと思う。
そのオープニング曲が下記の「チキチキバンバン」だ。ちなみに1960年代の子ども向けミュージカル『チキ・チキ・バン・バン』とは無関係だ。
アニメのオープニングには元ネタがあり、カバーがあり、それぞれが独自の雰囲気をもっている。以下は、パリピ孔明openingの3段階の変化、つまりパリピ孔明3段活用に関してだ。
活用の1段目は原曲だ。冒頭に述べたようにミュージカルとは無関係である。曲は、「まぁ、兄ちゃん、ノリノリっすね」と弱オタ的には冷めた目でみてしまう感じの楽曲だ。歌詞もまぁ楽しそうで頭が悪い。もちろん、それは私の独断と偏見による意見だ。
活用の2段目はアニメ版のOpeningのプロモーションビデオだ。元曲の雰囲気を活かしながら、昭和の深夜番組っぽいダメな雰囲気をいい感じで色濃く出している。わざとだろう。
アニメのopeningと同じ歌手が歌っているのに聴いたときの印象がかなり違うのは、人は見た目に瞞されやすいからだと思う。そういえば「独占!男の時間」という東京12チャンネルの番組があったことを急に思い出した。
活用の3段目は”歌ってみた”に相当するアニメ版のOpeningのカバー・バージョンになる。歌っているのはインドネシアのRainychという人です。1992年生まれだという。もしかするとアニメ版オリジナルを歌っている人たちより年上かもしれない。人は見かけだ。
冒頭はVHS演出で味がある。背景の映像も歌詞に合わせてあり、弱オタの私からみて120点だ。
そして、この活用3段目の驚くべき点は、この曲の歌詞の生かし方にある。原曲やオリジナルのお色気雰囲気はアニメ的に換骨奪胎され、その代わりに歌詞の面白さと言葉の面白さが前面に出ている。
「あれ、この曲の歌詞ってこんなんだったんだ」というところがきちんと聞き取れ、しかも明るく歌われている点も見逃せない。振り付けも下半身中心から上半身中心(肩と腕)に変化し、anime的な記号化を的確に捉えている点にも注目だ。
私事ではあるが、1990年代に『Da・Yo・Ne』という曲がリリースされ、以来、「日本語のヒップ・ホップはクズ」という固定観念の中に閉じこもることを心に誓った。もちろん、これが好きな人もいるだろう。殴られないうちに謝っておこう。ごめん。
私の偏見と憎しみに満ちた固定観点を崩してくれたのがAwichだ。ここまで言葉できちんと遊んでくれるなら納得もできる。この曲を含めて一時期は何曲もヘビーローテーションで聴いてしまった。日本語の滑舌が良く、英語と日本語がとてもうまくリズムに乗っている。
Rainychの歌う『パリピ孔明』オープニングの3段活用目に戻ると、Awichの毒をアニメ的に昇華させ、その上で、日本語の言葉の滑舌の良さ、言葉の聞き取りやすさを残したままに、Awich同様、歌詞の多重性を歌い方を含めて展開している。結果として、オリジナルの活用1段目、活用2段目より圧倒的に面白くなっている。参考のために、もう一度、3段目だけ表示しよう。
言いたいことは、 Da・Yo・Neの呪いを解いてくれたAwichとRainychへの感謝ということに集約されるが、あえて追記すれば以下のようになる。
すなわち、Jolly-QueendomとAwich-Rainychの相対的な差は何かといえば、記号としての《欲望》と、記号を表出する《ことば》との重み付けの差ではないかということだ。
前者が「《欲望》>《ことば》」であるとするならば、後者は「《ことば》> 《欲望》」だといえる。Da・Yo・Neも前者に含まれるが、あまりに拙いのでここではガン無視しよう。
相対的な差は隠喩の位置づけの違いだ。隠喩とはそもそも《ことば》の操作だが、前者においては、ボディ・アクションによって《欲望》は隠喩化され、《ことば》は背景へと後退する。Jollyの言葉には《ことば》としての意味はなく、Queendomでは《ことば》も具体的な意味を持たない。そのことは歌詞と映像が連動していないことからも明らかだろう。
Awichについては、《欲望》をギラつかせた演出であるため、言葉もストレートに《欲望》を表現しているかのように見えます。しかし、本当にそうだろうか。彼らの言葉は、彼らの言葉や態度の背景となる思いを隠喩するための《ことば》になっているとはいえないだろうか。表現したいものは、直接的な《欲望》ではなく、思いを伝えるための《ことば》なのだ。
一方、日本語の歌詞をカバーするRainychはまた異なる。彼女の中の《欲望》がどこにあるのかは具体的には見えない。《欲望》の表現自体が既に擬態だからだ。擬態こそが《欲望》という奇妙な状況は、擬態を含めた表現系(《ことば》)こそすべてという状況を生み出す。Hands upという歌詞でHands up する必要はないのだ。
いうなれば擬態自体がオノマトペ化しているということになる。それはそれでちょっとびっくりではないか。その結果、たとえば『恋愛サーキュレーション』は原曲以上に良い意味での不思議なあざとさへと昇華する。
そして擬態は先鋭化し、『にゃんぱすー』にいたっては既に「おいおい」というレベルだ。改めて年齢について述べるまでもないが、1992年生まれなのこの人はオタクの鏡とも言えよう。
言いたいことはそういうことだ。