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オンラインという媒体

「Zoomなどを使って会うオンラインよりも、実際に会う(オフライン)方がコミュニケーションがしやすいよね」という人は多い。多くの人がそう言う。そう感じる人が多いということだ。そして、実際にそうなのだろう。

しかし、AよりもBが良いという価値評価は常に揺らぐ。「インターネットでクレジットカードを使って買い物なんてなんか怖いよね」と多くの人が言っていたのはそれほど前のことではない。それを忘れてはいけない。AよりもBという感覚は流動的なのだ。そしてそれは、それぞれの人でも変わる。

人によって感覚は違う。あたりまえのことだ。私はそれをあえて《効用関数》という言葉を使って考える。《関数》とは言っても数学的な話ではない。行為に対して感じる不安やリスクの感覚、すなわちデメリットと、便利さ・利便性というメリットとのバランスが、人によってかなり違うことを、《効用関数》というひとつの言葉に縮退させている。そうすることで、人が違えばメリット・デメリットのバランスが違うことが、私には改めて思い出しやすくなる。

誰でも当たり前に使っているSuicaなどの交通カードを、「あれは個人の行動履歴が蓄積され特定されるから使わない」という人が今でもきちんと一定数いるのだ。

オンライン・オフラインに対するコミュニケーションのしやすさの感覚も《効用関数》の違いとして理解するのがよいと思う。オンライン・オフラインのコミュニケーションの《効用関数》は一人ひとりで異なる。そしてそれは時間的にも変化する。他の人が使っているかどうかというようなことにもまた影響を受ける。

「Zoomなどを使って会うオンラインよりも、実際に会う(オフライン)方がコミュニケーションがしやすいよね」という感覚は、その意味でほんの少しだけ時間軸をずらせば大きく変化してしまう可能性がある。

CSCW(Computer-Supported Cooperative Work)というコンピュータ支援による共同作業を研究する学術分野で、ビデオを介した協調作業の研究が盛んに行われたのは1980年代後半から1990年代中盤にかけてだったろうか。インターネットは普及期前夜であり、通信速度は遅く、正直にいえば、ビデオを介して協調作業をするよりも、音声だけを介して協調作業をする方が効率的だという結果が示されていたと記憶している。

人は見た目に瞞されやすい。だからカクカクと動く映像を見ながらの作業は、そのカクカクという状態がノイズになり、逆に作業に集中できなくなるのだ。そういう時代だったのだ。

一方、Zoomなどのオンライン会議が現実的なものになった2010年度中盤は、通信速度とコンピュータの処理速度が十二分に向上し、たとえば相手が瞬きをする様子が違和感なく眺められるようになった時期といえる。

もちろん、それだけではオンライン会議は普及しなかっただろう。結局のところ、新型コロナによって否が応でもオンライン会議をせざるを得ない状況によって、社会全体を構成する多数派の人たちの効用関数が変化したということなのだ。

しかし、それでも人はいう。「実際に会った方がいいですよね」と。

不思議な話だ。電話と実際に会うこととを比較する人は少ない。電話は電話、実際に会うのは実際に会うこととみんな割り切っているのだ。手紙もそう。源氏物語の時代のように和歌によるコミュニケーションを、実際に会うことや電話と比較などしない。

メディアが異なればコミュニケーションは異なる。本と映画と音楽は異なるメディアであり、異なる伝達手段だ。比べること自体が少し奇妙だ。

どれがよいという話でもない。《効用関数》が異なるのではなく、そもそも梨とイチゴ、どっちがいい?というような比較でもある。それぞれに味があり良さがある。好みと、でもショートケーキはイチゴだよねというように《効用関数》が違う。

結局のところ、「Zoomなどを使って会うオンラインよりも、実際に会う(オフライン)方がコミュニケーションがしやすいよね」というのは、それぞれのメディアの特性や特質をぼんやりと捉えた、感覚的で、雑駁で、分解能の低い議論なのだ。そうここでは断定する。

もちろん、それが世間というものなのだ。いまだに「私は紙の本が好き」と公然と言って憚らない風潮は当分消えそうにない。装幀にも文化があるという擁護論、紙の方が位置が把握しやすいという感覚論、紙とインクの匂いが好きという感情論、そして、「これは父が残してくれた本だから」という人生との不可分性、まぁ、いろいろあるのだろう。でも、結局は、紙の本と弟子本の比較は、演劇と映画を比較するようなものだ。

そして究極的には、紙の媒体は情報へのアクセスビリティという観点からすれば、差別助長的な態度とも言える。

会うことが大事。これも同様なのだ。ダブルスタンダートでもある。たとえば、一緒に暮らす家族がいる人にとって、家族と1日に6分程度も会話していない人(おはよう、朝ご飯何?=2秒)が、「会うことが大事」ということに矛盾はないのか。店でレジの人とちょっとした会話もしないで済ませるような生活を送っている私たちは本当に「会うことが大事」と心の底から思っているのだろうか。寝たきりの家族の介護のために外出しにくい人にとって、オンラインで自宅から他の人に会うことこそが貴重な時間であり、「会うことが大事」と声高にいうは、そういったサイレント・マジョリティを黙殺しているとは言えないのだろうか。

人は矛盾している。矛盾なく生きることはできない。ガザのニュースを見ながら、チャンネルを回して寅さんをついつい見てしまう。それが人だ。

そんな矛盾を抱えながらも、オンラインと実際に会うことが異なる媒体であることを無視して優劣を議論することは、もうそろそろ終わりにしたい。


「でもですね、実際感じが違うじゃないですか?」

そうね。そう人はいう。おいおいだ。飛行機と電車と徒歩は違うだろ? 混ぜるな危険。使い方だろうと感情的に反論したい。

たとえば、オンラインとリアルを同時中継してなにかをしようとする人も後を絶たない。そのやり方が一番難しいのだ。オンラインとリアルではメディアが異なるのだから、当然、情報のコンテクストの扱い方も異なる。よっぽどの通信環境と音声環境が整わなければ、両者の接続は難しい。電話と手紙を同時に使ってコミュニケーションをするのは無理だろう。

もしどうしても同時に使いたい場合は、情報コンテクストの共有速度が遅い媒体にあわせなければキツい。オンラインとリアルであれば、オンラインが主で、リアルは副、もしくは聞き専にするような配慮だ。そのような配慮のない安易な接続は、持つ者と持たざる者を同時に結びつける逆差別なのだ。

奇妙な議論をしているのはわかる。言いたいことは、オンラインよりも、実際に会うオフラインは異なるメディアなのだ。情報の量と質、一回性、反復性、身体的感情による動物としての影響、抽象度、言葉自体の重要性、アクセシビリティ、情報制約による集中、外骨格脳(エクソブレイン)へのアクセス性、いろいろと違うじゃないか。

ああ、嫌だ、嫌だ。これだけポリティカル・コレクトネスに神経質な世の中で、デブハラがなくならないのと同じなのだ。自分が加害者になっているという意識がないことがもっとも重要な加害になりえるということを学んできたのではないのか。

いや、きっと学んでいないのだろう。そう、人とはそういうものなのだ。もちろん人に私も含まれている。

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