人と人との微妙な距離の感覚:燃え殻『これはただの夏』
『これはただの夏』は、とてもいい小説だった。ああ、こんな風に人と人との距離感が描かれていくなんて。私はそんな風に感じた。
『これはただの夏』に描かれている人と人との微妙な距離の感覚は、私たちが「今」という世界に生きているからこそのものかもしれない。それはとても微妙で、もしかしたら、やがては消えていく、今という時代に生きる私たちだけが理解できる感覚かもしれない。
その感覚は、確かに私たちが普段生活をしているすぐ隣にあるのだけれど、微妙で、すぐに消えてしまう伝えたくてもうまくできない泡のような感覚。
『これはただの夏』は、不思議な小説だと思う。
もしかしたら『可能世界としての、これはただの夏』かもしれない。
大量のカードを並べたように、微妙に異なるすべての可能世界が並列に存在している世界。そんなことを感じさせてくれる小説に、私は出会ったことがない。
たとえばある世界では、登場人物の一人、明菜はストローを噛んでいる。別の世界では、明菜はストローに空気を吹き込んでぶくぶくと音をさせている。また別の世界では、ただ窓の外を見つめている。雨も降っている。
どのカードのどの世界を引いても、それは確かにそこに存在して、その中のひとつが、作者によっていまここに小説として掬い取られている。そんな気持ちになる。
登場人物の大関とホクト。明菜と優香。年齢と時間と場所と立場を変えてボクは彼らと出会っているのかもしれない。スナックの二階でゼビウスをしていたボクとホクトは、もしかしたら妙にカラオケの上手い大関のカラオケを聞いていたかもしれない。
そして、その場所は、私が会社の椿さんと行った岩手県奥州市水沢の、あの雪の日のスナック「めぐり逢い」かもしれない。
そういえば、『これはただの夏』の目次は、私たちに投げかけられた対話の問いのようでもある。
お姫様がお城の中で雨を眺めていると思った瞬間がありますか?
食べ方で人を好きになったことはありますか?
相手のすべてを知れば、あなたは幸せになれますか?
人魚はどんなところに暮らしていると思いますか?
その恋が消えるとき泡になると思いますか?
止めようもなくはしゃぐ子どもと、時間を過ごしたことはありますか?
握ってもらった本当に美味しいおにぎりを食べたことがありますか?
あなたはあなたを愛しすぎていませんか?
誕生日に誰かと何かを食べることって特別ですか?
なぜ夏の思い出は大切だと思えるのでしょう?
これは家族の物語ですか?
問いへの答えがほしいわけではない。問いは忙しさの中で忘れてしまったことをふと思い出させてくれるきっかけの感覚。
それが私がこの小説を好きだと思う理由だ。
ああ、そうだ。私もマックでフライドポテトはトレーに広げる派だ。
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