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どうでもいいことや他愛のないこと

どうでもいいこととか他愛のないことってのも、それはそれで、結構大切なんじゃないかと思う。

平野啓一郎『マチネの終わりに』を先日読んだが、まったくと言っていいほど共感できなかった。主人公たちの設定、君の名のような物語の展開、PTSDやテロといった話を動かすギミック、すべてがあざとくて、ジェームズ三木の安い脚本を読まされているような気がしたのだ。

中年の危機がテーマという人もいるが、そういうものはきちんと普段から悩んだり内省していないからじゃないのかと批判的な気持ちにもなった。

総体、物語の中の登場人物は悩んでいる風だが、あくまでも風で、浅い人物描写が延々と続く。少なくとも私にはそう感じられた。

まぁ、元々、渡辺淳一とかの新聞小説も軽蔑していたから、その類いの小説なのだよなと、とりあえず私の中で十把一絡げに決着をつけることにした。

どうしてもっと普通に、どうでもいいこととか他愛のないことの価値を描けないのだろうか。

もっとも、昔は私もまたそういう風には考えることができなかった。そうかぁ~と思えるようになったのは『男はつらいよ』のメロン騒動を面白いと思えるようになった頃からだろうか。

寅さんがお土産に持ってきたメロンを、家族が自分に断りなく、しかも自分抜きで食べたといって寅さんは怒る。寅さんの気持ちはわかる。普段はいないからついうっかり寅さんの分を残しておくのを忘れてしまった家族の気持ちもわかる。

さくらが「ほら、お兄ちゃんにはあたしのをあげるから」となだめるが、寅さんは「そういう問題じゃないんだ」と言ってむくれている。そんな風になったのは、そもそも寅さんがふらふらとどこかに出かけ帰ってこないからでもあるのに。さくらは寅さんを甘やかしてるなぁ。

でも、まぁ、それはそれでいいんだ。そういったものだ。人や家族は、そういったちょっとしたことで笑ったり泣いたり怒ったりしている。端からみたら、実はそれは本当にどうでもいいこととか他愛のないことだ。

同じように、他人の恋愛の物語も端からみたらどうでもいいことだし、ちょっとしたことの重ね合わせだ。それは端からはわからない機微だ。人の恋路の邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ、裏を返せば余計なお世話だ。

寅さんのメロンと『マチネの終わり』を比べてみれば、人生の機微をどちらがより的確に捉えているかといえば、圧倒的に前者だろうと私は思う。後者の言葉の多さは無駄に手数が多いだけで空虚に感じたし、ところどころ良いシーンや台詞もあるが、話の展開は基本的に馬鹿馬鹿しいほどに陳腐だ。『マチネの終わり』が好きだという人にはごめんなさいというしかない。私にとっては、もし電車で読んでいたら、読み終えたときに降りた駅のゴミ箱に捨てた一冊だったと思う。

言葉を虚しくする作家は残念だ。どうでもいいこととか、他愛のないことが結構大切なんじゃないかとやっぱり思う。一緒にくだらないテレビの番組を「あはは、くだらないねぇ~」と笑っていえるような関係。虚しい言葉をいくら重ねてもそこには至れない。それはそんなに肩肘を張らなくてもすぐそこにあるはずなのに。

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