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手に目
映画『パンズ・ラビリンス』は好みが分かれるとは思うが、ダークファンタジーとしてよく出来ていて、私は好きな映画と言える。
その中でも手に目があるベイルマンという存在は不思議な存在だ。だいたいそもそもなぜ手に目があるのだ。
まぁ、もし手に目があったら、それはかなり不便だとは思う。キーボードを打つときはずっと机が見えていることになる。しかも手はガタガタと動くから意外と目が回るかもしれない。手が持つ機能と目という器官の相性はよくない。
もちろん、先日のように一人で電動バリカンで髪を切るときは、自分の後頭部が見えることは便利だ。見えないおかげで後頭部の刈り後はドロシー曰く「ガタガタしてる」。
木には目や耳のような器官はない。彼らは森を、自分をどう感じているのだろう。いや、そもそも神経系がないから感じるという言葉自体が存在しないのか。
ずいぶん前にブルーバックスの『植物的生命像』という本を読んだ。私たちは動物だから動物的生命像に縛られていて、動ける・動けないというだけではなく、環境に合わせて大きさや形態を変えるとか、切ったところから別の組織を再生するとか、いろいろと違うよねということが語られていた。
左右対称とか前後があるとかいうのも、動物的生命像で、そもそも植物には前も後ろもないことは考えてみたら当たり前のことなのだ。
だから、もし目に手があったらというのも、私たちが顔に目がある生物だから思うことなのかもしれない。
テッド・チャンの短編小説「あなたの人生の物語」に出てくる宇宙人"ヘプタポッド"たちは、しいていうと私たちのように瞬間・瞬間という《今》を微分的に生きているのではなく、世界を積分的に把握していきている。それは『スローターハウス5』の主人公ビリー・ピルグリムが獲得して認識と近いのかもしれない。
いずれにせよ、それは空想の世界で、私たちの目は顔についており、世界は長く生きていれば積分的になってくるが、それでも基本的に私たちは今を微分的に生きている。
だから、自分では「ちょっと痩せたかなぁ」と鏡をみて思っていたのに、誰かにふとした瞬間に写真を撮られて、「あちゃー、相変わらずデブじゃん」なんてショックを受ける。
まぁ、なんというか、それはそれで残念な気持ちだ。