青春小説がもたらす希望:平戸萌『私が鳥のときは』
こういうのも変だが、ハリウッド映画が好きだ。 話の流れは、紆余曲折あっても、幸せいっぱいだったりハッピーエンドとは限らないけれど、どこか人生を肯定する様子が好きだ。
『ダイハード』『ショートサーキット』『スリープレス・イン・シアトル』『ファー&ウェイ』『グッバイ・ガール』『アメリカ万歳』『愛と追憶の日々』、古くは『アパートの鍵貸します』や『或る夜の出来事』もか。
芸術的であることよりも前向きであることが好きなのだ。
同じ傾向として青春小説も好きだ。子どもの頃は『赤毛のアン』のシリーズが好きだったし、最近であれば『成瀬は天下を取りに行く』も面白かった。古くは日本では石坂洋次郎『陽のあたる坂道』『青い山脈』あたりもか。
さきほど読み終えた平戸萌の『私が鳥のときは』も面白かった。収録された「私が鳥のときは」が、第4回氷室冴子青春文学賞大賞とのことで図書館で借りたのだけど、一緒に収録されている前日談ともいえる「アイムアハッピー・フォーエバー」も面白かった。
人生にはいろいろなものが必要だが、前に向いた明るさや希望というものも必要なのだと思う。
あるいは「自分とは関係ない」「自分とは違う」「よくわからない」と思っていた相手が、ふとした瞬間に別の角度から見えることもある。そのなんでもない瞬間が希望を与えてくれる。それが青春小説なのだと思う。
主人公の蒼子がそう感じたのは、特になにか特別の事件があったというほどのことはない。それなのに、自分にとって理不尽な異物のように、自分と自分の世界を害するように思えた相手が、「あれれ、この人はどういう人なんだろう」という不思議な問いとともに少しずつ違ったように見えていく。その変化の具合を読者も一緒に理屈ではなく体験できる。だから青春小説として爽やかなのだ。
表題の「私が鳥のときは」の理由を、私は驚きをもって読んだ。この本に収録された2つの小説「私が鳥のときは」と「アイムアハッピー・フォーエバー」の共通点をあげるとすれば、《分岐点》という言葉に集約されるだろう。現実世界と可能世界。私たちはこの狭間に生きているし、《分岐点》を思うことは、別の可能世界の存在を信じるということでもある。
『私が鳥のときは』の2つの小説に登場する人たちは、別に《可能世界》の論理を生きているわけではない。でも、人はいつでも思うのだ。「もし」と。
将来は未知数であり、過去にはさまざまな《分岐点》がある。それらは自らの人生を振り返れば「必然だったのか」「可能だったのか」と誰しも考えてしまう答えのない問いだ。
だからこそ青春小説は「かくあった」と描き、人はそこに様々な意味で希望を見出すのかもしれない。