自分の中でどう消化するか:ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』
本好きなら誰だって《心の積読》という本が何冊かある。「ああ、これはいつか読もう」と思って、短い人なら5年、長い人なら数十年、読まなかった本だ。最近であればカルシア=マルケスの『百年の孤独』をあげる人も多いかもしれない。
ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』が私にとっての《心の積読》だった本だ。古典ともいう本なので「えっ読んでなかったんだ?」と、いまさらのような顔をされてしまうタイプの本だ。
しかも不思議なことに、読んでもいないのに、そこに何が書かれているかを概ね知っている。知っているどころか《読んでいない本について堂々と語る》ことができそうな気さえする。でも《心の積読》ということは、これまでに読んでおらず、買ってすらいなかったということになる。
それがなぜだったのかはわからない。文庫でも上下あわせて600ページ弱。厚さのせいという人も多いだろうが、私の場合は本当に読みたければ厚さはあまり関係ない。岩波文庫『ジャンクリストフ』であれば2306ページ、『千一夜物語』であればちくま文庫で全11巻セット。ノープロブレムだ。
いや、ちょっと見栄をはった。若いときはノープロブレムだった。いまはそんなに気力も集中力も続かない。
その意味で私にとって今回、購入・読了した『千の顔をもつ英雄』は、読む時期を失した本なのかもしれない。上巻は面白く読めたが、下巻は気力がそがれ、疲れ、揺らぎ、倒れそうになりながら進んだ。残念なことに、ジョーゼフ・キャンベルの非凡で博識な大量の情報量を処理する能力が、既に私には失われてつつあることがよくわかった。
それはわかなさの森を歩くような『旧訳聖書・新約聖書』や『純粋理性批判』の読書とも違う。『千の顔をもつ英雄』のパーツ・パーツは理解できても全体として意味の焦点を結ぶことができないような感覚だ。
もちろん『千の顔をもつ英雄』でのジョーゼフ・キャンベルの主張や言いたいことはそれほど複雑ではない。いろいろな例示も明確だと思う。だけれど、疲れてしまうのだ。一緒に歩くことが。
小学生の頃の担任だった片山さんだったか、中学生の頃の理科の教師の舟木さんがだったかが言っていた「大人になるということは感動がなくなることだ」という言葉が思い返される。あの頃も頭では理解していたつもりだったが、いまは「ああ、それはこの感覚かもしれない・・・」と思う。
いや、結局、私は『千の顔をもつ英雄』の内容を消化しきれなかっただけなのかもしれない。自分にとっての『神話』の意味や、物語のアーキタイプについての解釈にもやもやしているだけなのかもしれない。大袈裟にいえば《21世紀における神話の意味・価値・語られ方》を自分の言葉で再構築することができていないだけなのかもしれない。
そう、そういえば、最近、映画を見て、漫画も読んだ『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』は新しい現代の神話なのかもしれない。きっとその接続が自分の中でできていないのだろう。
あるいはもっとテンプレの異世界転生もの『無職転生』や『町人Aは悪役令嬢をどうしても救いたい』でもいい。なんだったら『エロマンガ先生』だっていい。そういった大量の現代の作品群と『神話』や『千の顔をもつ英雄』との接続がまだ自分の中で言語化できていないのかもしれない。
仕方が無い。すぐに決着がつきそうにないし、『千の顔をもつ英雄』をもう一周する元気もないし、これはもう家にあるジョーゼフ・キャンベル『神話の力』を改めて読み直してみるしかないのかもしれない。ただし、ゆっくりと、時間をかけて。
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