出会いというのは後悔とともにあるのかもしれない。
「出会いというのは後悔とともにある」なんてほどのことはないけれども、本については出会うべき時に出会っておきたかったなということはある。
若いときに感動しても、歳をとって再読すると案外とがっかりしたり、若いときに読んだときはさらっと流してしまった本が、より深いレベルで面白くかけているのに気づいたりもする。だから、出会うべきとに出会えたことは僥倖ともいえる。
たとえばトールキンの『指輪物語』は若い頃に夢中になって読んだが、30歳を過ぎて再読したら、どうもピンとこなかった。もしかすると今読むとまた別の意味で面白いのかもしれない。
あるいはトルストイの『アンナカレーニナ』は若い頃に読んだときもとても面白いと思ったが、私の中で『戦争と平和』と登場人物たちが少し混ざってしまっていた。数年前に再読したら『アンナカレーニナ』は想像以上にディテールがよく書けていて素晴らしかった。
だから、年齢によって本に対する印象はいろいろと変化するわけだけど、それでも時々、「ああ、この本ともっと若いときにであっていたらな」と思う本がある。
読書猿氏の『独学大全』に紹介されていたDaniel Solowの『証明の読み方・考え方』もそんな一冊だ。
副題は《数学的思考過程への手引き》で、数学の証明を構成する証明義本について書かれた教科書だ。「数学っぽく書かれていて難しいのかな」と、しばらく積読のままだったが、最近、少しずつ読み進めている。
「ああ、この本ともっと若いときにであっていたらな」と思う。
『証明の読み方・考え方』の説明は難しくない。例題もまだ前半までしか読んでいなけれど平易だ。高校生なら自然に、中学生でも、習っていないところだけ少し飛ばせば、頑張れば読めるんじゃないかと思う。
そう、「ああ、この本ともっと若いときにであっていたらな」と思うのだ。
企業で働いていると、ときどき教科書を馬鹿にする人に出会う。特にマーケティングなど学問としてまだ経験的な部分が多い分野について、「そんなことは知っているし、大したことは書いてない」という風な態度が格好いいと勘違いしてしているのかもしれないが、残念な話だ。
マーケティングのようなまだ未整理の部分が残る分野の教科書を書くということは、実際の事例にはいろいろな例外もあるけれど、そこから共通的な部分だけを抽出して書くしかないはずなのだ。様々な例外やバリエーションは授業の中で展開すればいい。そういう学びのプロセス的なもののはずだし、そのようなバリエーションを考える中で本当に自分に大切なものが身につく。
マーケティングとは異なるけれども、証明の方法論についても「わかったつもり」になっていなかっただろうか。中学でも「○○を証明しなさい」という課題はあったし、それは高校、大学と進んでも、教科書の中にさまざまな証明がでてくるので、それを読んでなんとなくわかったような気になっているし、簡単なものなら理解できるような気がしてしまっていた。
でも、この本を読み始めて思うのは、証明は考え方の方法論なのだということだ。
方法論だから、基本的な部分に複数の要素が組み合わされて構成されていく。何をあたりまえのこと・・・と言ってはいけない。それでは「そんなことは知っている」と口癖のようにいう企業の誰かと同じになってしまう。
そして、証明の構造が透けてみえないと、証明がわかったといえないし、証明できるとはどういうことかもわからないはずなのに、恥ずかしい話だが、私はそのことを全く理解していなかった。つまり証明を組み立てて構造を作っていくという方法論がわかっていなかった。ダメじゃん。
「ああ、この本ともっと若いときにであっていたらな」と思う。最近になってこの『証明の読み方・考え方』を手に取りつくづく思う。出会いというのは後悔とともにあるのかもしれないと。
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