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私には間というものの意味がわかっていなかった:チェーホフ『ワーニャ伯父さん』

チェーホフ『ワーニャ伯父さん』を課題本とする読書会に参加した。参加の動機は・・・・・私がミーハーでスノッブだから。

『ワーニャ伯父さん』がチェーホフの四大戯曲のひとつということは、《知識》として知っている。『桜の園』は以前読もうとして残念なが挫折した。だから読書会という機会で読んでみようと思ったのだ。

それに、世界大百科事典にはこんな風に書いてある。《はかりしれない影響》だよ。ミーハーでスノッブな私の魂が揺れる。

《かもめ》,《ワーニャ伯父さん》,《三人姉妹》(1900-01),《桜の園》(1903-04)の四大劇が世界の近代劇に及ぼした影響ははかりしれない。

世界大百科事典

もちろん、読書会の参加においては、「えっ、いまさら?」なんていう雰囲気をおくびにも出さずに出席したわけ。


しかし・・・・・・残念だ。私の目論見はもろくも崩れ去った。

『ワーニャ伯父さん』を読み終えた私の感想は、「え、どこが面白いの?」「なんか暗い。救われない」「どこが四大戯曲?」「え、それがわからない俺って駄目な奴?」とダメの四大悲劇だった。

解説を読むと、チェーホフ劇を支える独自な「間」」についての解説が書いてあるが、ピンと来ない。

文学作品のよくないところは、あっちが先行する権威だってところだ。その権威にはじき返されて自分を責めてしまいそうになるのだ。

「ダメだ~」と失意のうちに読書会に参加した。


読書会のグループは、私ともうひとりを除いて、映画『ドライブ・マイ・カー』を観ないでの参加だった。

映画『ドライブ・マイ・カー』の劇中劇では『ワーニャ伯父さん』が使われているそうで、先に行われた映画『ドライブ・マイ・カー』の読書会が大分盛り上がっていたようだった。

観ていない二人はネタバレが気にならないタイプで良かった。

「映画のワーニャ伯父さんのシーン良かったよね~!」という人の話を聞けば、『ワーニャ伯父さん』の面白さのポイントに気づけるかもしれないから。私からは観た人に、「思う存分、映画の話をしてください」とお願いした。

自己紹介と簡単な感想を2巡ほどして、私はちょっと安心できた。「暗い話だ」と感じていたのは私だけではないと分かったからだ。「登場人物の振る舞いがよくわからなかったよね」という率直な感想も嬉しかった。自分だけじゃないんだと思えた。

映画の話になり、この話ってちょっとユーモラスだよねという話になった。私はびっくりした。「えっ、どこが?」と思ったからだ。

「二幕の終わりのソーニャのセリフ「ダメですって」ってところとかね」
「そうそう」

「えっ、そうなの?」と私は思った。実は私はこのシーン、私は何の話をしているのかわかっていなかったのだ。

他の人たちが、「ここ、なんだか可笑しいよね」という感想を聞いているうちに、私にも少しわかってきた。私はその前のページのエレーナとソーニャの会話を読み飛ばしていたのだ。

私はKindleで文字をかなり大きくして読んでいる。だから、ソーニャの「ダメですって」という台詞に疑問を感じても視野の範囲にその前段が入っていなかった。それなのに「あれれ」と思いながら先に進んでしまっていた。これでは折角の戯曲も面白いはずがない。

この前段のエレーナとソーニャの会話は、改めて何回か読み直してみるとなんだか暖かい感じがしてくる。とても微妙な感じではあるが、二人の女性が心を通い合わせ初めている感じもする。

そう考えると、なるほど、二幕の終わりのソーニャのセリフ「ダメですって」は、二人の会話の終わり方としてとてもユーモラスだ。それが私には読めていなかった。

少し言い訳じみたことを言えば、「戯曲の書法に慣れていない」ということなのかもしれない。

懇親会で、読書会のグループの別の方が「主語が一人称や三人称で語られる小説って読みやすいなと思います。戯曲って主語や視点が固定されないので統一した感覚がなかなか掴めない感じがしました」という感想を言われた。まったく同感だ。

思い返せば、一幕冒頭のマリーナとアーストロフの会話のシーンから、「いったい何の話なんだろう」というハテナで一杯になり、まずは筋を追おうということに一生懸命になり、先へ先へと私は読み進めていたような気がする。

それが結局、私の中での「わからない」につながっていたような気がする。

四幕最後のソーニャの語りもそうだ。読書会で話をした人は皆が「あそこ、良かったよねぇ~」と話す。私にはその良さがわからなかった。慌ててさっきその少し前から読み直した。

テレーギン、そっと入ってきてドアの前に腰を下ろし、かすかにギターの弦を調節する。
ワーニャ:(ソーニャの髪を手で撫でながら彼女に)ソーニャ、なんてつらいんだろう!このぼくのつらさがお前に分かればなあ!
ソーニャ:仕方ないわ、生きていかなくちゃならないんだもの!
    間。
ソーニャ:ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い長い日々を、長い夜を生き抜きましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えるの。
(以下、長い独白の後、戯曲終了)

「えっ、なんで?」とまたも思ってしまった。ワーニャは「辛い」と言っていて、「ソーニャにはわからない」と言っているのに、その後のソーニャの長いセリフは唐突に思えたのだ。

「もしかしたらさっきと同じようにその前の部分にヒントが?」と思い、慌ててページを戻ってみた。

わからない。ワーニャは何やら計算をしているし、マリーナが出発の報告をしているだけなのだ。さらにその前に戻ってみても、割と普通の旅立ちの挨拶。ワーニャーは何やら計算をしている。

思い切って他の人に尋ねてみた。

「ちょっと最後のところがなんでソーニャがあんな風に長く独白を言いはじめるのかがよくわからないのですが・・・」
「それは、きっといろいろあったからですよ」

初めて「ああ、そうなのか」と思えた。

いろいろあったから・・・・・・。

いろいろあったから、本当はソーニャの「仕方ないわ、生きていかなくちゃ鳴らないんだもの!」というセリフで終わってもよいシーンが、《間》をはさんでソーニャの長い独白になるのか。だからワーニャは何も言わないけれども、さっきまでは無心に計算をしている風なのに泣いているのか。

ソーニャの独白の前のセリフのあとの《間》は、ソーニャの感情があふれ出るまでの時間なんだ。それが私には読めていなかった。

文字にするとほんの一瞬。なんでもないト書きのように見えて、そこで感情が大きく揺れているんだということが、そのとき初めてわかった。

慌ててページを戻りながら、《間》の前後だけを追っていくと、そこここでそんな仕掛けが溢れているような気がしてくる。

私は《間抜け》だったのだ。戯曲はもっと場面や空間や表情を想像して読まなければいけないのに、ついつい小説を読むときのよくない習慣で筋ばかりを追っていたのだ。記述された言葉だけを追っていたと言ってもよい。

言葉に注目する読み方は『アンナ・カレーニナ』でとても有効だったが、『ワーニャ伯父さん』では別の読み方をしなければいけなかったのだ。

それが読書会で他の人の話を聞くうちにわかった。「そうか、そうやって読めばいいのか」ロールプレイングゲームでレベルアップしたときの光と音を感じた。見栄をはった言い方をすれば「舞台芸術のコンテクスト」を理解していなかったということなのだろう。

以前、知り合いが、「私は実は映画やドラマがすぐわからなくなるの。考えてみたのだけれど、それは映画やドラマのコンテクストのルール、ちょっとした目配せとかヒントとなるアングルとかが受け取れなくてわからなくなると思う」と言っていたのを思い出した。そのときは「そうなんだ~」と何気なく聞いていたが、同じことが脚本を読むということにも通じるのだろう。

いや、それ以上かもしれない。小説のようには丁寧には書かれていないことを補完しながら読むというのは、かなり創造的な読み方が求められる。そしてそれは、詩や俳句を読むのともまた別の能力だ。

そんなことをいろいろ思いながら、『ワーニャ叔父さん』をもう一度読み、『ドライブ・マイ・カー』も観に行きたいと思う。

私にとって、とても意味のある読書会だった。

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