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現代社会と神話の世界:ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』下

ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄』(下)の読書会に参加した。

上巻の「第一部 英雄の旅」と比較すると、「第二部 宇宙創成の円環」を中心とする下巻は、私には少し読みづらかった。

おそらく書かれていることは、「英雄の旅」も「宇宙創成」も、個々人の経験や体験や記憶と、社会としての経験や体験や記憶と、それぞれがモノリス(神話の原型)の円環上で起こる変化という構造を持ち、それは人の心の構造(というか表われ方)とも関係しているということなのだろうか。

そう考えると、エピローグ「神話と社会」が、3つの章、すなわち、

  1. 姿を変えるもの

  2. 神話、カルト、瞑想の機能

  3. 現代の英雄

で構成されていることは興味深いことだと思う。

以下では、雑ぱくではあるけれど、このエピローグの感想に加え、現代の神話とはなんだろうかということに関する雑記。


1. 姿を変えるもの

『千の顔をもつ英雄』のエピローグの「1. 姿を変えるもの」は、わずか2ページほどの断章で、その冒頭では「神話を解釈するにあたって決定的な体系は存在しない」という文で始まる。

この文は《存在しない》に比重が置かれているのではないのだと思う。すぐ次の文では、

神話というのは、プロテウス神(海に住む真実を語る老人に似ている。この神は、「あらゆる姿をとろうとする。地を這い回るものにもなり、水にもなり、燃えさかる火にもなる。ありとあらゆる姿になる」

とある。すなわち、冒頭の文は、神話が、いかようにも変化するものであり、動的なものであることを強調するために書かれていると私は思うのだ。

キャンベルは続ける。

人生という航路の旅人がプロテウスに真実を教えてもらうには、「その老人をしっかりと捕まえ、強く押さえつけて」おかなければならない。そうすれば、プロテウスはやがてその真の姿を現してくれるだろう。だがこの手練手管の神は、質問者がどれほどたくみに質問を繰り返しても、知恵の全貌を明らかにしてはくれない。訊かれたことにただ答えるだけなので、質問しだいで素晴らしい答えが返ってきたり、つまらない答えが返ってきたりするのである。

そこから、キャンベルは、現代社会における位置づけに関する記述でこの断章をおえている。キャンベルが「神話を解釈するにあたって決定的な体系は存在しない」と語るのは、時代によって解釈自体が変化していくことを言いたいのだ思う。すなわち、神話の現代的な意味は時々に応じて変容するということなのだと思う。

神話についてはさまざまな判断が下される。というのも、神話とは何かという観点ではなく、どう機能するか、過去にどのように役立つかという観点から考えた場合、神話は、生命そのものがそうであるように、個人、集団、時代、精神、要求に合わせて、その姿を現すからである。

2. 神話、カルト、瞑想の機能

『千の顔をもつ英雄』のエピローグの「2. 神話、カルト、瞑想の機能」は、個人と社会の相対について4ページほどで整理されている。

個人というのは必然的に、人間の全体像の一断片であり、全体像を歪曲したものに過ぎない。個人は、男か女かのどちらでしかありえない。また人生の時期を区切ると、個人は、幼児か青年か成人か老人でしかありえない。役割という点でも、個人は職人、商人、雇い人、あるいは泥棒、聖職者、指導者、妻、修道女、娼婦などとして生きる。つまり、同時にすべてになることはできないのである。したがって、全体性(人間の完全性)は個々人ではなく、全体の社会のうちに存在する。(中略)個人の集団からなる世代は、(名もない個々の細胞のように)次の世代に推移する。だが、超時間的な元型はそのまま残る。個人を超えたものとを受け入れてビジョンを拡大すれば、個人は自己を高め、豊かにし、維持し、たくましくなれる。個人の役割は、それがどれほど月並みなものであっても、人間の美しい祝祭のイメージに欠かすことのできないものであることがわかる。そのイメージは潜在的だが、個人の中に必ず存在する。

この美しい個人と社会の相対に関わるビジョンは、この断章の最後の引用の一文に集約される。

ムハンマドよ、お前がいなければ、私は空を創らなかったであろう

3. 現代の英雄

『千の顔をもつ英雄』のエピローグの「3. 現代の英雄」では、現代という時代の課題をキャンベルはこんな風に整理している。

かつて、意味はすべて集団の内部、巨大で無名のかたちの中にあり、自己表出する個人の中にはなかった。ところが現代社会では、意味は集団の内部にはなく、世界にもない。すべての意味は個人の中にある。しかし、その意味も完全に見失われている。そのため現代人は、どこに向かって進めばよいのかわからない。自分を駆りたてるものが何なのかわからない。人間の意識と無意識の領域をつなぐ線はすべて断ち切られ、私たちは二つに分断されている。

ここで描かれている分断は希望の放棄なのだろうか。キャンベルは現代の神話の創成を介して何かが可能だと思っているのかもしれない。けれどもそれは単一の物語ではない。

しかし、私たちに一つだけわかっていることがある。新たな象徴が可視化されるとき、その象徴は地球上のさまざまな場所で違って見えるということである。生活のありかた、暮らしている人、伝統といった環境的要因が、すべて効果的に組み合わせられなければならない。その結果、さまざまな象徴を通じて誰にでも救済がもたらされることを理解し、見抜くことが必要になる。『ヴェーダ』には次のように書かれている。「真実はひとつ。賢人はそれにたくさんの名前をつけて語る」一曲の歌があらゆる音階で歌われている。したがって、部分の解決に役立つものをいくら喧伝しても意味がない。それは逆に脅威となる。あらゆる人の顔に神の顔を見ることが、人間となるための方法なのである。

キャンベルはこの断章をこう締めくくっている。それは希望と絶望が入り交じった複雑な《ヴォイス》で語られている。

現代の英雄、つまり自分が呼び寄せられたことを気にかけ、人類が運命をともにする存在の住まう場所を探し求める個人は、自分が属する共同体が、うぬぼれや恐怖、合理化された欲望、聖化された勘違いといった古い衣服を脱ぐことを期待できない。ニーチェは次のように語っている。「生きよ、あたかもその日が来たかのように」 創造する英雄を社会が導き救うのではなく、反対に、創造する英雄が社会を導き救うのである。こうして、私たちは一人ひとりが究極の試練にのぞむ(救世主の十字架を担ぐ)。しかも、社会全体が大勝利をおさめる輝かしい瞬間にではなく、個人的な絶望のうちに黙々と試練にのぞむのである。

4. 現代の神話とは

この最後の文章をどう解釈すべきだろうか。様々な受け取り方があるだろうが、私には二つの疑問が浮かぶ。「ここでいう《創造する英雄》とは何者なのだろうか」という疑問と「この英雄(もしくは新たな神話)は誰がどのように生み出すのだろうか」という疑問だ。

ジョーゼフ・キャンベルの『千の顔をもつ英雄』は、よく「スターウォーズシリーズの原点」だとか、「クリエイター必読の古典的名著」だという風に語られる。確かに、キャンベルが記述したモノリス(神話の原型)や英雄の旅の円環については、その評価はあたっていると思う。けれども、それはキャンベルキャンベルがやりたかったことの半分でしかなく、エピローグで彼が語りたかったこととは少し異なるような気がする。

私たちの心と共鳴する現代の神話は誰がどのように語るのだろう。それはスターウォーズのような型抜きされただけのエンターテイメントのようなものなのだろうか。実は、もっと身近にあって、日々のニュースと隣接するような感性のようなものではないのだろうか。

5. 蛇にピアスの神話的構造

ふと、2003年に書かれた『蛇にピアス』という小説を思い出した。『蛇にピアス』のような小説は現代の神話と言えないのだろうか。

そこで、ChatGPT君にこう聞いてみた。

『蛇にピアス』という小説がありますが、この小説を現代の神話と位置づけたとき、どのような特徴が言えますか?

以下がChatGPT君の答えだ。

『蛇にピアス』(金原ひとみ作)は、現代社会の暗部や若者の葛藤、アイデンティティの模索を描いた衝撃的な作品です。この小説を「現代の神話」として位置づけた場合、いくつかの特徴が挙げられます。現代の神話としての『蛇とピアス』の特徴は、伝統的な神話の英雄譚や道徳的教訓とは異なり、現代社会の不安や孤独をリアルに反映している点にあります。以下は、その主な特徴です。

1. 自己変容と身体改造
主人公ルイの舌ピアスや身体改造は、彼女が自分のアイデンティティを模索し、変容を求める過程を象徴しています。これは、神話的な変身譚に似ており、自己の境界を超えようとする欲求や、痛みを伴う変化を受け入れる姿が描かれています。

2. 無秩序と混沌
物語全体に漂う混沌とした雰囲気や、秩序が崩れた現実の中で登場人物たちが生きている様子は、神話における混沌と秩序の戦いを連想させます。ただし、伝統的な神話が秩序の回復を目指すのに対し、『蛇とピアス』では混沌そのものが主要なテーマとして扱われています。

3. 痛みと快楽の二面性
神話的には痛みは試練や浄化の象徴ですが、『蛇とピアス』では痛みが快楽と結びつき、現代の若者たちの心の闇や、自己破壊的な欲求を象徴しています。この二面性は、神話における善と悪、光と闇の対立と通じる部分があり、痛みを通じて何かを得ようとする姿が描かれています。

4. アイデンティティの喪失と再構築
ルイや周囲の登場人物たちは、自分自身のアイデンティティに迷い、破壊し、再構築しようとしています。これは、神話の中で英雄が試練を通じて成長するプロセスに似ていますが、現代の文脈では自己破壊と再生のサイクルがより強調されています。

5. 異世界への誘い
神話的な物語では、主人公が異世界に誘われることが多いですが、『蛇とピアス』では、ルイが刺青師や身体改造の世界に引き込まれる過程が描かれています。この異世界は、彼女にとって日常からの逃避先であり、同時に新しい自己を探求する場となっています。

6. 愛と暴力の混在
物語には暴力的な愛や、歪んだ人間関係が描かれています。神話の中で愛と暴力はしばしば表裏一体のものとして描かれますが、『蛇とピアス』でも同様に、愛情が暴力と共存し、登場人物たちを深い結びつきに導いています。

7. 生と死の境界
神話には生と死の境界を超える物語が多く存在しますが、『蛇とピアス』もまた、死の匂いが絶えず漂う世界で、生の実感を求める登場人物たちが描かれています。この生と死の曖昧な境界は、現代の神話的要素として捉えられます。

『蛇にピアス』は、現代の若者の苦悩や社会の底辺で生きる姿を、神話的な要素を織り交ぜて描いた作品であり、現代社会に生きる人々の心の中の混沌や自己探求を表現しています。これは、古代の神話がその時代の人々の生き方や価値観を反映していたように、現代の神話として読むことができるでしょう。

ChatGPT君が言っていることが本当かどうかはなんとも言えない。けれどよく整理された一つの考え方ともいえる。『蛇にピアス』もまた現代におけるひとつの神話のあり方なのかもしれない。少なくとも私はChatGPT君が言っていることに同意してしまう。

『蛇にピアス』の主人公や周囲の人々は、それぞれがこれは神話だというようなことは一切考えてはいないが、それでもこの小説を読むとき、それは私たちが現代において感じている何かを象徴しているのかもしれないと思えてくるのだ。だとすれば、彼らは現代における神話の世界の登場人物として位置づけられるのではないだろうか。

6. 可能世界としての《小説世界》

もし抽象的な《小説世界》(小説として描かれることが可能な《可能世界》)があるとすれば、映画なども含め、大きな意味での《小説世界》こそ、現代における神話世界なのではないだろうか。

そう考えると、たとえば、ポール・オースターの『ガラスの街』も、どこか神話世界から切り取られた多重世界(複数の可能性が重なりあった世界)のようにも思えてくる。

そう思えば、キャンベルが『千の顔をもつ英雄』のエピローグの最後にいっている「社会全体が大勝利をおさめる輝かしい瞬間にではなく、個人的な絶望のうちに黙々と試練にのぞむのである」とは、《小説世界》を一つの媒介としながら、それぞれの生を生きるということなのかもしれないと思えてくる。

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