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衝動について考えている

日曜の早朝に、よく参加している読書会の人との雑談タイムがあって、「《衝動》について考えている」という話をした。

直接的なきっかけは谷川嘉浩氏の『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』を読んだからだし、間接的なきっかけは松尾芭蕉『おくのほそ道』、レイチェル・ジョイス『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』という2つの旅に関する本を読んだからだ。

今朝の雑談タイムでは、当然のことだが《衝動》ということばを「瞬間的な感情的な高まり、あるいは情動」という風に捉えて話された方が多かったように思う。谷川氏の《衝動》ということばに関する議論はシンプルだけれど複雑で、雑談という形式の短い時間では私がうまく伝えきれなかったということもあるのだろう。

『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』は、序文がネットで公開されているが、それだけ読んでもやっぱり???となるのと思うので、私に言えることは「本を読んでください」ということになってしまう。つまり雑談タイムで起きたことはある種の必然だったのだと思う。谷川氏も述べているように『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』での《衝動》という言葉の使い方は、「日常的な語感とは少しずれている」からだ。

それでも、何かを言いたくなってしまったのは、上記の序文にも書かれていることにどこか私が共感するからだ。

「何かを学びたい、身につけたい」と思うとき、衝動がその背景にある方がずっと持続するし、遠くまで行くことができます。今の自分の手が届く範囲を超えて、ずっと遠くのものに触れるために何かを学びたいのだとすれば、きっと「衝動」が必要です。自分でも説明がつかないくらい、非合理な衝動が。

新たなテクノロジーが次々登場しているからこそ、どこまでも私たちを突き動かす衝動について考える意義があるというわけです。解像度が低い議論だとはいえ、広い意味での「欲望」について考える意義が一層増していることを示すには、これで十分でしょう。

松尾芭蕉の「片雲の風に誘われて」という《衝動》は決して一時的なものではない。少しずつ少しずつ蓄積され、その蓄積はもしかすると松尾芭蕉の場合はとても意図的であったかもしれないが、それでもそこから生まれた《欲望》は抑えつけておくことはできないものとなっていく。谷川氏が序文の中で言及している『チ。』のラファウの行動原理に近い。

一方のハロルド・フライの《衝動》は、表面的には一時的な思いつきのように見えるが、これもまたずっと蓄積された思いの表出のような気がする。たまたまそれがある瞬間に《気づき》として自覚されたという意味では、谷川氏が序文の中で言及している『葬送のフリーレン』のフリーレンの行動原理に近いのかもしれない。うーん、フリーレンの行動原理にはいくつかの軸があるから、ある種似ているぐらいの感じかもしれないけれど。

なんでそんなことをモヤモヤと考えているかというと、《衝動》という言葉を聞いて人は、右脳的な行動っぽい言い方をすることが多いからだ。右脳・左脳という区分の科学的な正統性はさておき、本当にそうなのかという点でモヤモヤしてしまうのだ。

「言葉にできない抑えられない衝動」という言葉を使ってしまえば、人が《右脳的》という言い方をするのもわからなくはないが、言葉にできないことは本当に《右脳的》なのか。極めて論理的な行動原理であっても、言葉にできないことはないのだろうか。もちろん、論理的という言葉と言葉に出来ないという表現は既に矛盾しているから「何を言っているんだ?」ということにはなるのだが、そう、たとえばこの文章のようにグルグルと考えながら思いを巡らすとき、言葉になっているようで、それは言葉にはなっていない。直観でもなく、主観も客観もすべてないまぜになってしまっているが、答えるのを止められない状態。そういう状態を《衝動》の範疇に入れておこうということが、谷川氏が言っていたことのようにも思えるのだ。

子どものとき、幾何の問題を解くのが好きだったが、あれも言葉にはできない論理的な行為っぽい《衝動》に近い。詩を書くとか俳句を書くというのも言葉を取捨選択するという行為が止められなくなっているという意味で《衝動》っぽいのではないか。その《衝動》は決して脳の奥の方の喜怒哀楽や情動を司る部位から生まれてくるものだけではなく、もっと理屈っぽい部位やあるいは音や光や言葉を処理する様々な部位との連関で生まれてくるのではないか。そんなことを考えてしまうのだ。

谷川嘉浩氏の『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』に関してモヤモヤと考えることを止められない。それは私にとって《衝動》という言葉に一番近しい位置にあるような気がする。


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