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目的論的で効率的な今の世の中にあって、「読んでほしい本なんだ」とその人は言った:柴崎友香『百年と一日』

実は最初は『百年と一日』を読むつもりがなかった。その前の月に読んだ『飛ぶ孔雀』が衝撃的だったからだ。何かを読んで世界がぐらりと揺らいだように感じたり、昨日までの風景と今日の風景は同じなのに、もはや二つの世界の連関に自信を失ったように感じることは最近では滅多にない。なんだかんだ言いながら、まだ『飛ぶ孔雀』の余韻の中にいてお腹が一杯だった。

それでも誰かが「この本はいい」「現代だからこそ読むべきもののひとつだと思う」と言うのを聞くと興味が湧いてくる。どんな小説なのだろうと知りたいという気持ちが抑えきれなくなってくる。


『百年と一日』は不思議な話の集まりだった。そして『飛ぶ孔雀』とは対極の世界。『アンナ・カレーニナ』とも対極かもしれない。

自分が読んだ3つの作品を比べるのは、余りに自分勝手な我田引水な読み方だとは思う。けれど『百年と一日』を読むと、私には何重もの意味で、3つの作品が、それぞれに象徴的な対峙する世界を作っているように思われたのだ。


「作者が感じたものと同じものを私は見ているのかしら」と言った人がいる。その気持ちはとてもわかる。

『アンナ・カレーニナ』では、トルストイが登場人物たちを心理描写や風景描写も含めとても丁寧に描いている。そのおかげで、私たちは登場人物に共感したり同情したり反感をもったりしながら物語の世界に没入していける。

『飛ぶ孔雀』は、建築的に技巧的で構造的な世界が確かに存在するのに、私たちにはその全体を必ずしも掴みきれない。何か確固としたものがありそうなのだが、突然、野球のスタジアムの真ん中に立つ自分を発見したような違和感を感じる。必死に世界の成り立ちを理解しようと努めるしかない。あるいは理解すること自体を諦め、その世界に身を委ねてしまうところに、ある種の喜びがある。

『百年と一日』は、そもそも独立した世界が幾重にも重なり、開放系としてつながっている。いや、つながっているかどうかは定かではない。商店街や団地のようだといえば、比喩が卑近すぎるだろうか。

ピーター・ドイグ

区画ごとに、人々の呼吸があり、嘆息がある、モンタージュのような世界観。モンタージュといっても何か統一的な1つ絵姿が組み合わされて作られるのではない。バラバラにそれぞれという観念だけが通底するようなそんな世界。

時間の流れもばらばら。それぞれの世界の中で時間の流れの整合性は取れてはいるが、その流れの緩急はそれぞれの世界で自在に揺れ、どこか傍観的で、早くもゆっくりも流れていく。

もしかすると、『クララとお日さま』のクララが見ていた世界もこんな感じだったのかもしれない。彼女の場合は、ときどき混乱して、ばらばらの世界がさらにばらばらに砕けてしまうことがあったにせよ。クララは全体としてそんな風に世界を観ていたのかもしれない。そんな風にも思えてくる。


「星新一に似ていると感じた」と言う人もいた。言われて私も、確かにそうかもしれないと思う。

R氏が登場しそうな、名前に意味があるのかがわからない、主語が曖昧な世界。場合によっては登場人物が男性なのか女性なのかも曖昧にされている。異なるものが連関し、それでいて傍観的で、そして話は断ち切られたように終わる。物語はそこでぷっつりと終わってしまうのに、時間はそのまま流れていく。

星新一のショートショートにあるようなアイロニーが織りなす世界とは異なるが、複合的ないろいろなものが断片だけスルリと取り出されたようなところが似ているかもしれない。アメリカの1コマ漫画の収集が趣味の一つだった星新一が、誰にあてるでもなく蒐集したそれらにひと言を添えたエッセイ集『進化した猿たち』にも似ている。「星新一に似ていると感じた」という感想を私もそうだと思った。


『百年と一日』は読んでいて楽しい本だった。

なにか大きな物語や文脈があるようでない大河ドラマ。そんな世界の連なりが心地よく安心できた。構築的な建造物を眺めるというよりは、流れていく河を眺めているような気持ちだ。そしてときどき、はっとするほど私が見聞きしたあの瞬間に似ている場面に出会う。そんな小説だった。

たとえば冒頭の話にこんな記述があります。

ビニール傘には、大きな雨粒が当たってばらばらと音が鳴っていた。その音が、一組一番はとても好きだった。雑草が伸びた芝生には雨水が溜まって、湿原のように踏み込むたびに水が浸み出た。

『百年と一日』


雨の音、芝生の水たまりの見た目、運動靴に浸みる水の冷たさ。《私もそれを知っている》と呟きたくなる。一組一番がそこで見つけた白いキノコを、私は森の中で見かけたことがある。本当に驚くほどの白さなのだ。

そして、二組一番の子どもは大学生になり、その子はとても色の白い印象の子で、二組一番の浅井さんはその子に、「一組一番の青木さんと一緒に白いキノコを見つけた日、宇宙人にあった」と語り、彼はその話を青木さんにとても聞きたそうにしている。そういう話だ。

《似たようなことが確かにあった》。そう思いながら読み進めていくと、不思議な楽しさと、そして、時にはさびしさも感じる。

角のたばこ屋は見事な藤に覆われており、やがて、その角のたばこ屋だった建物も藤もなくなるというその風景は、私が子どもの頃に住んでいた団地の見事な桜の芝生をなぜか思い出させる。

人々が三々五々花見を楽しんでいたその場所は、今では無機質な高層のマンションが建っている。その向かいの中学校へ続く道の角にはかつて埼玉銀行があり、中学生だった妻はその脇の横を抜けて学校に通っていた。


どの話が好きだったか、印象に残ったかというのは話していて楽しい経験になるかもしれない。それぞれで違うのは当たり前で、それは感じている記憶も違うからだ。


私は加藤の話が好きだ。「週に四日だけ働いて、あとは古本屋で本を買って読み終わったら売り、部屋で墓地の木々を眺めながら安い酒を飲んだ」加藤は、私とはずいぶんと違う。

けれども「駅で路線図を眺めていると、佐藤が子供のころに住んでいたという街の名前を見つけた。思いついて、そこへ向かう電車に乗った」という彼に私は共感を覚える。

高校生の頃、夜中に思いついてママチャリで東京郊外の東久留米から千葉の松戸まで走ってみた。理由はないのだ。なんとなく。御徒町のあたりでJRの高架をくぐったときの風景がいまも不思議と思い出される。明け方に松戸に着き、建築中のマンションで仮眠してから、自転車は松戸に住む親戚に預け、電車で家に帰った。

《加藤は別の世界の私かもしれない》。もうひとりの私は、加藤や高橋や鈴木という名前でどこかで別の暮らし方をしているのかもしれない。

そう思うと、駅の噴水で若い人に意味もなく声をかけてしまうことも、あるいは年配の人に声をかけられた不審な気持ちになることも、どれも思い当たる断片の積み重ねだ。未来の自分は、いつの日かどこかのベンチに腰をかけ、川か山か公園の噴水かをぼんやりと眺めながら、遠くの人や日々を思い出しているかもしれない。


著者の柴崎さんは、「元々は短かったそれぞれの話のタイトルを、あえて長くしたのは時間の流れを感じて欲しかったから」という主旨のことをはなされていた。それは柴崎さんの作品への愛着を感じさせてくれる話だ。そんな話を聞くと、さらっと読んでしまった話もなんだか不思議に生き生きとしてくる。

「物語はきっと誰かがだれかに『こんな話があった』と話したことで始まったのかもしれない。そんな話を書いてみたかった」という主旨のことをおっしゃっていた。「それがこの小説の原点で、その感触を書いてみたかった、昔話の始まりを書いてみたかった」というようなこともおっしゃっていた。

私はなぜか伊勢物語の「芥川」という話を思い出しました。

日々の生活の中で、私たちは感じていると思っていることよりも、もっとたくさんのことを受け止めているのかもしれない。それと同じことを感じた人、感じる人がどこか知らないところにいるのかもしれない。

重大な決断ではないことの積み重ねがその人を作っているのかもしれない。書いたもの、書かれたものは、小さな小瓶の手紙のように、書いた人と読んだ人は違うことを思うかもしれない。

でも、それらの人々はどこかでつながっているのかもしれない。


目的論的で効率的な今の世の中にあって、「読んでほしい本なんだ」と言った人の気持ちが、柴崎さんのお話を伺っているうちに少しわかったような気もする。

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