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日常の中に組み込まれた非日常

日曜の朝のZoom、久しぶりに1分間朗読に手をあげ、永井玲衣『世界の適切な保存』の冒頭部分を音読した。

 小学生のとき、わたしは「かかかかかかかかかかかかか」とか「ちちちちちちちちち」とか「をををををををを」と口の中で小さくつぶやく習慣を持っていた。
 授業をしている先生の口からこぼれる言葉たちや、教科書に並んでいる言葉を見つめる。厳密にはわからないが、そこには使われていない五十音がある気がしてくる。
 この五分くらい先生は「か」と言っていないのではないか。この場に「か」が足りないのではないか。緊張して耳をすます。やはり言わない。「が」はたくさん言っている気がする。だが「か」はないようだ。これでは「か」が足りない世界になってしまう。世界のバランスが崩れてしまう。「かかかか」と口の中で小さく何度かつぶやき、この世界のバランスを保つ努力をする。授業を終えるチャイムが鳴って、みんなが立ち上がる。

永井玲衣『世界の適切な保存』「よくわからない話」

音読が終わって「おかだまさんがとつぜん"かかかかかか"って言い出してびっくりした」と言われた。『世界の適切な保存』というエッセイの冒頭に書かれたこの話が本当の話なのか少し創った話なのかはわからないが、確かに人が「かかかかか」と言い出せば驚くし、「ちちちちち」が足りないってどういうことと思わせる面白い冒頭だと思う。

映画館で映画を観ることが大切だという人は、私にはわからないがなんらかの《没入感》を大切に思っているのだろう。コンサートなどで《一体感》について語る人もそうだ。別にそれが悪いことであるはずがない。でも、それこそが至上であるという風に思っている話し方をされると、いつものように「なんだかなぁ~」と感じてしまう。

きっとそういう人は《非日常》を求めているんだろうと思う。非日常の中に没入することは刺激的だし発見的だ。違う国や土地に実際に行けば、自分が実際に知っていることがどれほど部分的だったり偏っていたかを痛感する。《非日常》は私たちの感性や人生を豊かにしてくれるし、時には知恵も授けてくれる。だから、《非日常》を求めることは大切なことだ。そしてその《非日常》に身を委ねることは楽しい。

ただ思うのだ。本が好きだということ、それはSFでも小説でもエッセイでもよいが、それは《非日常》ではないのだろうか。数学や物理、あるいはプログラミングを学んで習熟し、ある日、「ああ、なるほどそういうことか」とわかる瞬間は《非日常》ではないのだろうか。

当たり前のように繰り返す毎日には、本当に《非日常》はないのだろうか。そういう些細な《非日常性》は、音場や空間、周囲の環境や雰囲気によって強制的に没入させられてしまう《非日常》より劣っているのだろうか。

「かかかかか」や「ががががが」が足りないと感じて補う日常。それは体験至上主義では味わえない《非日常》ではないのか。

「オンラインで話すよりも実際に会って話した方が集中できる」という人がいる。まぁ、それはそうだろう。五感を通じて情報を受け止めるわけだし、視野角も広くなる。家からのオンラインであれば、話している相手以外のものも目に入るし、検索をかけて自分の知識を補完したい誘惑にも駆られる。実際に話をしたりインタビューをしているときに相手が検索していたら失礼だしね。つまり、実際にその場にいるということは、そのときその瞬間に《没入》することが求められる。

繰り返すけれども、それがいけないわけではない。あくまでも《問い》は「体験に没入することが是なのか」なのだ。そう問えば、「それだけではない」と答えが返ってくるだろう。嘘をつくな。それ以外のものの価値を貶めることを避けようと思うためには、それ以外のものの良さや大切さを味わいつくす必要があるのに、そんな気などさらさらないのだ。

《非日常》に没入するとは、実はとても受動的な態度だと私は思う。《日常》の中に《非日常》を当たり前のように組み込むことは容易ではないのだ。あざとくもなるし、正解もない。そこに《非日常》を感じ対峙するのは自分しかいない。簡単であるはずもない。

日常の中に組み込まれた非日常。言葉にすれば14文字。しかし私には無限といってもよいほど難しい。

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