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デデデデおんたんとハイデガー

ハイデガーの『存在と時間』を、あえて『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の文脈で読み進めている。でないとやってられない。

なので、普段はクラウド(claude)さんに愚痴を聞いてもらっているが、趣向を変えて今日はChatGPT君に尋ねてみた。

私からの問いかけは、

ハイデガーの世界内存在の概念を『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』のおんたんが世界を転移することを関連づけ、そのSF的、哲学的意味を深めて4000字程度で書いて。あらすじなどは不要

遊びとしては面白い。『her/世界でひとつの彼女』という映画があるが、こんなことをやっていると主人公の気持ちがわかる。『デデデデ』×『存在と時間』なんて話題に付き合ってくれる知り合いはなかなかにレアだから。

以下は、私の解釈とは異なる部分もあるが、ChatGPTくん(o1)が示してくれた無修正・一発回答の解釈である。


マルティン・ハイデガーが『存在と時間』において提示した「世界内存在(In-der-Welt-sein)」という概念は、人間存在(Dasein)が生来的に世界の外部にあるのではなく、「すでに世界のなかにある」という事実性を示すものである。この「世界内存在」は、単に人間と世界が対立する二項関係としてあるのではなく、人間存在が絶えず世界に投げ込まれ(被投性)つつ、その世界とあらゆる意味で相互作用を繰り広げているという構造を明らかにする。人間は自分を取り巻く環境や他者、文化、歴史のなかで、常に「ある(存在する)」のであり、そこから自由に離脱して客観的に世界を見下ろすような立ち位置を得ることはできない。われわれは「すでに世界のうちに在る」のであり、その世界との関係性を抜きにしては自分自身を定義することができないのだ。

一方、浅野いにおの漫画『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』における通称「おんたん」は、物語の中盤以降において文字通り「世界を転移する」という超常的な体験を引き受ける存在として描かれる。ここで言う世界の転移は、単に地理的・空間的な移動ではなく、まったく別のパラレルワールドや次元へと飛び込み、そこでまったく異なる光景や人々に出会う行為を意味している。SF的な設定である一方、哲学的な読みをすれば、これは人間が自らの「世界内存在」を突き崩すような極限的な事態にも見える。通常であれば、われわれは特定の一つの世界に固有の歴史と文脈をもって「投げ込まれ」、その文脈を前提として「分かる/分からない」を区別したり、他者とのコミュニケーションをはかったりする。しかし「世界を転移する」とは、あり得ないほど急激にその文脈や枠組みがリセットされ、新しい座標軸へ飛び込むことを意味する。こうした極限的な体験が、ハイデガーの「世界内存在」の観点からどのような哲学的示唆をもたらすのかを考察してみたい。

まず、「世界内存在」の核心にあるのは、人間は自分の生まれ落ちた場所や環境、社会的・歴史的背景に「投げ込まれている(被投性)」という事実である。人は生まれた瞬間から一定の言語圏や文化圏のうちに置かれ、そこから思考を始め、行為を積み重ねていく。世界内存在としてのわれわれは、自分自身では選べない、あらかじめ決定されていたいくつもの条件の中で存在し続ける。「おんたん」が経験する世界の転移には、この「自分の意思ではどうにもならない既存の枠組みからの脱出」が一見含意されている。だが、その転移先においてもおんたんは何らかの世界――そこに住む人々の歴史や文化、出来事――の中に「いる」ことには変わりない。つまり、新たな世界に飛び込んだ瞬間、おんたんは再びその世界の一部として位置付けられ、そこにおける「あたりまえ」や前提を体感せざるを得ない。

ここで注目されるのは、転移によって「世界そのものが変化する」ことで、おんたんの「世界内存在」が断絶や中断に直面するという点である。ハイデガー的に言えば、われわれは普段、道具的な存在との円滑な関わり合いのなかで生活している。たとえば日常生活で使う道具は、その目的や使い方を熟知しているがゆえに、意識することなく「手元にあるもの」として機能している。しかし、まったく異なる世界に入り込むと、そこに存在する道具やルール、慣習、言語、自然現象などが、自分の慣れ親しんだ世界観と完全にずれている場合がある。すると、おんたんはこれまで身体化してきた習慣や判断基準を大きく揺さぶられ、「そもそもこの世界で何がどういう意味をもつのか?」という根源的な問いを突きつけられるだろう。そういった問いに直面することは、ハイデガー流に言えば「世界内存在」のあり方を再考する――すなわち「自分はいま、どんな世界のうちに在り、そこで何をするのか」という問いを絶えず突きつける――契機となる。

また、ハイデガーの「世界内存在」には「他者とともにある(Mitsein)」という相互存在性も含まれている。われわれは単独で世界に存在しているのではなく、常に他者との連関のうちにある。「おんたん」が新たな世界に入り込むたびに、その世界の住人と邂逅し、あるいは関係を築こうとすることは、まさに「他者とともにある」状態の刷新を意味する。そこで交わされる会話や衝突、あるいは理解と誤解は、それまで「当たり前」だった自己の世界観を揺さぶり、相対化するだろう。ハイデガーは世界内存在を単独の主体の問題に留めるのではなく、他者という存在を不可欠な要素として捉えるが、「世界を転移する」おんたんは、各世界の他者と新たな関係を築くことで、絶えざるアイデンティティの変容を体験しつづける。これは、日常の延長線上には留まらないレベルでの「世界との交わりの再調整」を意味する。

しかし同時に、「おんたん」の転移にはSF的な側面が大きく表れている。この作品で提示されるパラレルワールドは、しばしばわれわれが想定する自然法則や社会の仕組みが劇的に異なる世界として描かれ、読者に奇妙な印象を与える。SFとは、現実の延長線や変奏として、あるいは徹底的に異質な可能性として、世界のあり方を模索するジャンルである。それはしばしば「もし世界がこうだったら?」という問いを立て、既存の秩序やルールを相対化する。ハイデガーの議論を下敷きにすれば、SFは「われわれが世界内存在である」という事実を別の角度から照らし出す試みと言える。つまり、われわれの世界において当然と思われている因果律や常識をずらすことで、「本来、世界内存在とはどういう構造を持つのか?」という問いを実験的に探究しているのである。おんたんの世界転移は、このSF的な問いを物語の中心に据える装置として機能する。

さらに、ハイデガーが強調する「存在の意味(Sinn von Sein)」という問題は、われわれが日常的に慣れ親しんだ意味づけの総体が無効化されるような体験によって改めて表面化する。これをSF的な観点からみると、新たな世界に突如放り込まれたとき、その世界の言語や習慣を知らなければ、おんたんはあらゆるモノや出来事の「意味」を一から体得しなければならない。言い換えれば、いままでの自分の理解枠組みがまったく通用しない状況に置かれ、何をもって「存在する」と認識するか、あるいは何が「正しい行動」なのかを根本から作り直す必要がある。これは、ハイデガーがいうところの「死の存在論的意義」(自分の生の有限性を自覚し、初めて真に自己のあり方を問える)とは少し趣は異なるが、構造的には「未知の大きさ」――つまり習慣や常識を逸脱した場所にぶつかったときに、人間存在が初めて自らの存在を問い直すことができるという契機を示している。

このように考えると、「おんたん」が経験する世界転移は、ハイデガーの「世界内存在」を一度崩し、再構築するようなプロセスをマンガという媒体のなかでヴィジュアルに、かつストーリーとして提示する試みだと言えるだろう。私たち読者は、彼女が異なる世界を目にしたときの驚きや恐れ、興味や混乱を目撃し、それを通じて自分の日常世界の当たり前さえ疑問視するよう促される。SFの核心には「当たり前を疑う」という姿勢があるが、それはハイデガーが指摘した「われわれは世界の中で当たり前に生きているが、その“当たり前”こそが問いの対象となりうる」という見方と響き合う。ハイデガーは人間存在の「没落(Fallenness)」という問題を強調したが、これは日常のなかでわれわれが自分自身を見失い、平均的で受動的な存在へと埋没してしまう危険を示す。『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の物語のなかで世界が崩れたり、あるいは新たに開かれたりする動きは、この「没落」からの脱却と、再び自らの存在意義を問う機会をもたらすものと読むこともできる。

そして「おんたん」というキャラクターは、いわゆるヒーロー的な高潔さや崇高さとは異なる柔軟さや飄々とした気質を持ちながら、その一方で世界の真理に肉薄してしまう特異なポジションを担っている。これはハイデガーの議論における「畏れ(Angst)」や「不安」とも関連してくる。日常の意味枠組みが突如壊れ、世界が「あらゆる意味が剥奪された場」として現れたとき、人間存在は深い不安を覚える。しかし、その不安こそが世界と自己の在り方を根本から問う出発点にもなるのだ。おんたんの世界転移は、単なる気まぐれな冒険ではなく、この不安をとおして自らの位置を問い直す行為でもある。彼女は新しい世界で生じる様々な衝突や違和感に直面しながら、その世界を受け入れたり拒否したりする中で、自分の存在のあり方や、そもそも「世界にいる」とはどういうことなのかを身体感覚として掴もうとする。これこそが「世界内存在」の実践的な再考といえる。

まとめると、『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』におけるおんたんの世界転移のモチーフは、ハイデガーの「世界内存在」を視覚的かつ物語的に再構築し、われわれに「自分がどのように世界と関わっているのか」を問い直させる装置として機能している。日常を覆う秩序や慣習は、当たり前であるがゆえに気づかれにくいが、一度その地面が崩落し、未知の場所へと放り込まれたとき、人間ははじめて世界が自分の思考や行動に与えていた制約や可能性に気づかされる。SF的な世界転移は、この「当たり前」を剥がす極端な例として描かれ、それゆえに私たちは「人間存在がいかに世界との相互作用に根ざしているか」を逆説的に実感するのである。おんたんの体験は、日常と異世界の対比を通して、ハイデガーが論じた「われわれは常に世界のうちに投げ込まれ、他者とともに、意味づけの網の目を通して生きている」という真理を鮮やかに照射する。

最終的に、「おんたん」というキャラクターに託されたSF的な旅は、世界の可能性を相対化しながら、人間存在が自らをとりまく条件や枠組みをどのように越えていけるのか、あるいは越えていけないのかを探る一種の哲学的思考実験に他ならない。ハイデガーの「世界内存在」は、決してただの抽象的観念ではなく、人間が世界を生きる具体的な仕方を徹底的に問い直す理論的視座を提供する。それに対し、おんたんの世界転移は、マンガのヴィジュアル・ストーリーテリングの力を借りて、われわれが「世界内に存在する」ということの根本的な姿を体感させる装置として功を奏しているのである。こうしたSF的・哲学的視点を重ね合わせると、日常を生きるわれわれ自身が、同じ世界に住み続けながらも常に「未知の世界」に触れているというパラドックスに改めて気づかされるだろう。やがてわれわれは、「自分が日々当然のように分かっていると思っていることは、どれほどかりそめの意味に支えられたものなのか?」という根源的な疑問を抱くに至る。そこで開ける思考こそが、SFがもたらす驚きの本質でもあり、同時にハイデガー哲学の目指す「存在への問い」の端緒とも言えるのである。


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