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短編小説を読むように:佐藤晃子『女性画の秘密』
佐藤晃子著『女性画の秘密』。副題は「知れば知るほどおもしろい」。副題の通り、ラファエロからモネ、マティスまでの70人の画家の絵が取り上げられた本書はとても面白い本でした。
面白さにはいろいろな軸があります。読む人にとってその軸が違うからこそ、たとえば読書会で話をすることは面白いのでしょう。
面白さには深さという軸もあります。数学や物理といった理系の科目がとっつきにくいと思われているのは、その中にある面白さの深さの軸が、直観的には見えにくかったり、計算力といったその分野ならではの慣れが必要だからかもしれません。
でもそれは数学や物理に限りません。化学だって地学だってそうですし、工学もそう。歴史学も社会学もなんだってそうです。サッカーや野球を楽しむのにだって、その競技を見慣れることは必要ですし、その競技に部活などで親しめばきっともう一歩深い面白さに触れることができるのでしょう。
それはあたりまえのこと。人は安易に「わかりにくい」「難しい」といいすぎるのかもしれません。「わかりにくい」とか「難しい」というのは私に言わせれば学校教育の弊害です。その弊害はまま、屈折した形で《わかりたい病》としても現れるからさらに厄介です。
もちろん人間というのは複雑です。人と人とが本質的には分かり合えない存在だと理解していたとしても、分かり合いたいという気持ちを求めてしまう。それがたぶん人なのでしょう。あたりまえのことです。
そんないじけた気持ちを軽々と飛び越えてしまうのが本書です。もったいぶらず、軽くも重くもなく、そこにある何かを《ここに何かがあると思うのです》と、素直な気持ちで伝える雰囲気がとても居心地がよいのです。
本書の章は5つに別れ、画家はそれぞれの時代別に語られていきます。でも絵画の歴史学ではありません。「ある時代にこんな人がいて、こんな絵を描いた」。そういうことが安易にエッセイ風の文章に流れることなく、ある意味、淡々と述べられていきます。
そんな絵と文章の組み合わせに私は短編小説を読むような楽しさを感じます。そこに絵があり、画家がいて、モデルがいて、社会がある。その全体が一篇の短編小説であるかのように私は本書を読んでいると感じます。
短編小説ですから、個々の要素が語られ尽くされることはありません。トルストイの『アンナ・カレーニナ』を読まれたことがありますか? びっくりするような生き生きとした描写があります。短編小説を読むような楽しさは、その一場面を、前後の脈絡とは独立に切り離し、見せられているような感覚です。短編小説なので、なぜ彼女なのか、なぜこの表情なのか、なぜこの背景なのかは記述されつくしてはおらず、想像するしかありません。そこに面白さがあります。
専門的な背景を著者はしっかりと踏まえて書いているのだと思います。しかし本書は専門書ではありませんから、すべてが語り尽くされることはありません。隠された短編小説を読む楽しみは私たちに任せられているのです。
たとえばカルロ・クリヴェッリの『マグダラのマリア』。彼女はなぜこんな表情なのか、彼女の手の甲はなぜそんなに長いのか、描かれた彼女はこの絵を見たのか、何を感じたのか、どんな生活をしていのか。一切の答えはここにはありません。でも不思議な魅力のこの絵を見続けてしまいます。
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主体と客体。それは見る人と見られる絵、描く人と描かれる人とを分けて考えるということです。しかしこの絵をみていると、それがいつしか混然一体となってしまうような気持ちになります。中動態という言葉を思い出します。本当に面白い小説は、長編にせよ、短編にせよ、その世界が私たちの世界と溶け合ってしまう。そこに本当の面白さがあるのです。
クラーナハの『ホロフェルネスの首を持つユディト』も不思議な絵です。描かれたのは1530年とありますから、ヨーロッパ最古の大学であるボローニャ大学のアルキジンナジオにある解剖学教室が作られた1637年よりも100年ほど前の絵です。
でも、首の切り口は結構リアル。クラーナハの時代は首の切り口は当たり前のことだったのでしょうか? それともあえて画家は実際のそれを何かの機会を使って見たのでしょうか? 気になります。一方でユディトの持っている剣はあまり切れ味がよさそうには見えません。殴るのに適した剣、あるいは木剣? そもそもこの話は旧約聖書の一場面です。首の切り口を丁寧に描いた人がなぜこのような剣を描こうと思ったのでしょうか。この絵を巡って作者は周囲の人とどのような会話をしていたのでしょうか。そもそも当時の剣というのはこうだったのでしょうか。勝手な妄想が膨らみます。
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本書で取り上げられたその他の絵も、一枚一枚、丁寧に見たくなります。勝手な空想をしたくなります。
それはある意味、私の勝手な解釈です。でも楽しい。そんな楽しさを許容してくれるような自由さがこの本にはあるような気がします。
その自由さは、もしかすると絵の選択に制約が付けられたことで生まれたのかもしれません。完全な自由な空間というのは案外面白くないものです。空気がなければ乱流も抵抗もなく、サクラの散る様子もシンプルな垂直な自由落下です。軸という制約には面白さが折りたたまれているのです。
もちろん、外的な不自由さを無条件に肯定するわけではありません。でも短編小説の秘密を自分も考えてみたいと私に思わせてくれる余地が生まれたのは、もしかすると絵の選択の不自由さと紙面の量という制約にあるのかもしれません。
不自由だからこそ無限の自由を感じさせてくれる本書は、絵画の世界をもっと歩いてみたいと誘う短編小説集のように、私にとって何回も繰り返して読みたい一冊になりました。