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楽譜の読み方
累計発行部数は3870万部という『のだめカンタービレ』だから、野田恵こと”のだめ”が音大生であることは多くの人が知っている。
音大生だから楽譜が読めるかというと、そこは微妙な気持ちになる。身近に声楽科を卒業した人がいるが、楽譜をみると「てへっ」と言って逃げる。正確にいうと「ふん、ふん、なるほどね」と言いながら「今日って水曜日だっけ?」と微妙に話題を変える。”のだめ”も漫画の中で「おまえなぁ~」と真一によく文句を言われていたっけ。
「読める」とはどういうことか? ピエール バイヤールは『読んでいない本について堂々と語る方法』で「おまえにそれが語れるか?」とばかりに開き直った巧妙のレトリックを駆使していた。
読書会への参加で《読了》を参加条件とする場合は、この問いを改めてするまでもないだろう。読めているかどうかはともかく、読んでいるかどうかが問われるからだ。また、「私は読めているよ、フン、フン、フン♪」と自信を持って読書会に参加する人は稀だ。たぶん。
「読んでいない本について堂々と語る方法」のように、「読むこと」についてATフィールドを張り巡らし、「いやぁ、間違っているかもしれないんですけど、私はこう思うんですよね~」とポツリ、ポツリと語りはじめる。それでいいのだ。『読んでいない本について堂々と語る方法』は読むという行為の不完全性に関する考察だったといえる。
余談だが、「アブダクション―仮説と発見の論理」という本をあるとき知人に薦められた。「おかだまさんはきっとアブダクションという考え方に興味があると思うんですよね。この本、どうです?」と。
アブダクションは、演繹とも帰納とも異なる仮説検証型の推論の一種で、科学的な発見に関するプロセスともいえる。読みにくい本で、読み終わるのに3ヶ月ほどかかってしまった。が、なるほど面白い本だった。
本の感想とお礼を彼に言ったところ、「そうでしたか。私はアマゾンの書評をみただけなんです。よかったですね」と返された。そう、10倍返しは、いつかこの気持ちを大切に使ってやろう。少なくとも私はそう思っている。
いずれにせよ、『読んでいない本について堂々と語る方法』は興味深い本だ。読むという行為の意味、その本について語ることの意味についての考察が述べられている。
楽譜もまた同様だ。先日参加した楽譜読書会の課題本は、ショパンの『ピアノ協奏曲第1番』だった。
読書会についてのイメージは人それぞれだが、初めて参加するときの気持ちは同じだろう。「何を話したらいいのだろう」「何を話したらよいのかわからない」「みんなすごくわかっているかも」。不安な気持ちで一杯だ。
それは楽譜でも同様だ。求められていることは『読了』。すなわち、この場合は楽譜を見ながら音楽を聴いてくること。解説については読んでいればよいとされている。わかってきてくださいとは誰も言っていない。
この曲は、"のだめ"が世界の大指揮者にしてエロオヤジのシュトレーゼマンと初めて共演し世界デビューをはたしたあの曲だ。
解説について知り合いが「私はこんな風に読んでいます」と画像をくれた。解説のこの部分だ。
音楽は各部分に盛り込まれた高潮・沈滞・緊張・弛緩など《内容の推移》であり・・・
もらった画像をここに引用しよう。
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びっくりポン!とはこの衝撃のためにある言葉だ。自由。あまりに自由。
"のだめ"のような自由な人は小説やマンガの中の登場人物だけだと思っていた。そんなことはない。
私はこの言葉を皮肉で言っているのではない。心から羨ましいと思っているのだ。なぜ私はこんな風に生きてこなかったのだろう。どれだけ《理解》という言葉に私は縛られて生きてきたことだろう。
"のだめカンタービレ”が愛される理由もわかる。累計発行部数は3870万部もうなづける。私たちは自由であることからかけ離れてしまっていたのだ。
私たちは《わかる》ことに拘泥し、遠慮し、自由を失ってしまっていないだろうか。楽しむことを堅苦しく考えすぎていないだろうか。もっと自由に。歌うように。
そういう人に私はなりたい。楽譜読書会はその一歩かもしれない。