坂戸日記 2024.02.17
2024年2月17日、晴。
雪のあと、何日か暖かい日が続いたので、アネモネとクロッカスが咲いた。アネモネは昨年からそのまま放置していたもので、クロッカスは球根を掘上げたものを冷蔵庫で保管、秋に植え直したものだ。
春一番も吹き、このまま春になればいいのに。 でも、きっと君たちは早く来すぎたと思うよ。ごめんね。
インターネットが日本で普及するきっかけとなった年は1995年頃だろうか。30年ほども経ったことになる。総務省の情報通信白書をみると、個人のインターネット利用率は85%になる。もうとっくにインターネットがそこにあることが普通な時代なのだ。
なにを今更?ということなのかもしれない。その通りだ。でも、それが当たり前になったとき、私たちの当たり前も変わっていく。
たとえば、アノテーション(annotation)。古くは「注釈」という意味だし、テキストや音声、画像などのいろいろな形態のデータに、タグやメタデータを付けることを指したりもする。
ずっと以前、2007年頃、会社の同僚が「エキソ・ブレイン」ということを言っていた。エキソ・ブレインとは、外骨格のように外骨格脳を実装する人々というようなニュアンスの造語だ。今となっては「当たり前」にも感じるかもしれないが、Googleが誕生してまだ10年にも満たない頃にその造語は新鮮だった。別の同僚は、そのもう少し前、たぶん1997年頃、アノテーション・ウェッブというようなことを言っていたと思う。
どちらのアイディアも、きちんと日の目をみることなく時が経ってしまったことになるが、考えようによっては、今、私たちは、外骨格脳(≓エキソブレイン)として、アノテーション・ウェブを身に纏って生きているともいえる。特別なことじゃない。どこかに出かけたときに、食べログで近くの旨いラーメン屋を検索しながら歩いているじゃないか。
そんな時代、対話はどう変わるのだろう。
先日、不思議な経験をした。映画の話をしていたのだが、話している相手が、その少し前に私がwikipediaなどで検索して知った情報を滔々と話し始めた。おいおい、検索してすぐわかることを話すなよと、正直にいえば気持ちがよくなかった。
あなたと話しているのは、検索をしてわかることを確認したいからではなく、あなたの考えや《VOICE》が知りたいからだ。上から目線でいえば、誰かと何かを話すとき、私は検索してすぐにヒットすることは知っていても話さない。もし話すとすれば、その情報がなにか新たな補助線として意味をもつときだ。知識のための知識として、検索してすぐわかるアノテーションは、現代においてはほとんど無価値なのだ。
さて、それは本当だろうか。無価値と切り捨てた私の行為は正しかったのだろうか。
もやもやしながら、ブロッコリーのパスタを作った。もちろん、ネットで検索したから作り方はばっちりで、まぁまぁの出来になった。