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おめでとうと言われる。

noteがときどき「おめでとう!」と言ってくれる。今回は、少し前に書いたnoteの記事『少しずつコツコツ進める工夫を生み出す』が、#私の勉強法 の応募作品の中で、先週、特にスキを集めたことを「おめでとう」と言ってくれた。

とは言っても、『少しずつコツコツ進める工夫を生み出す』は先週、スキを12貰ったに過ぎない。だから、客観的にそれは「おめでとう!」ってほどなのかとも思う。

でも、主観的にはやっぱりうれしい。人なんてそんなものなんだ。褒められればうれしい。

皮肉な見方をすれば、「それはシステムとして、商売として、人に脳内物質を出させるための工夫です」ともいえる。だから、そんなことに喜ぶのは愚かしいことだとも言える。

しかし、その理路は愚かしくないことについての価値判断を含む。私たちは愚かしくないことの価値判断を誰もが納得できるのだろうか。少なくとも私にはかなり難しい。

そうすると今度は「愚かしいとか、そうではないというのは、人それぞれですものね」と言われる。人それぞれ。便利な言葉だ。なんだって、かんだって、味噌も何もひっくるめて《人それぞれ》だ。

それで納得できるだろうか。イジメもなにもみんな《人それぞれ》。《幸福》も人それぞれ。人を殴って楽しいと感じるのも、それは嫌だと感じるのも《人それぞれ》。すべてのことを包摂してしまえば、あるのはインターネットの赤い海に沈む、個の消えた《人それぞれ》だ。それはひとつのビジョンだとは思うが、それでよしとして終わるのは、作家性の強い作品世界ならともかく、人の世のあり方として、どこか不自然に感じる。

せっかくシステムに「おめでとう!」といわれ、何人かの人が《スキ》のボタンを押してくれたのに、身も蓋もない話だ。

それはきっと、ここのところ『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』の漫画を毎日、少しずつ読み進めているからだとは思う。私自身にとっての《世界モデルの描き方》が揺らいでしまっているからかもしれない。

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』恐るべし。



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