見出し画像

SFとファンタジーの境界

SFとファンタジーの境界をどこに設置するかは人によって違う。

SF好きの知人は「SFはサイエンスフィクションと言うよりは、Speculative Fantasyだとずっと思っていた」というように包摂的だし、私はもう少し科学技術と社会学よりだ。

ル=グウィンは、『夜の言葉』でこういっている。

ある種の科学的気質(踏査的・統合的気質)とファンタージー好きな気質とのあいだにはなにか関連がないのだろうかとわたしは思ったことがある。たぶん、"サイエンス・フィクション"という名称は、わたしたちの手がけるジャンルに対して、つまるところそう悪い名称でもないのだろう。ファンタジーを嫌う人間が、科学に対しても同じように退屈や嫌悪感を抱くことがしばしばある。こういう人間は、ホビットも恒星状天体(クエイサー)も好きではない。どうも相性が悪いのだ。複雑なこと、遠く隔たったものはどうでもよいのだ。ファンタジーと科学とのあいだになんらかの関係があるとすれば、それはきっと根本的に審美的なものであろう。

アーシュラ・K. ル=グウィン『夜の言葉』「モンダスに住む」

ル=グウィンは、ファンタジー小説のジャンルに属するのロード・ダンセイニ作品の"内陸(イナー・ランド)"を「わたしの故郷」と呼ぶ。

私はSFが好きだが、ファンタジーも好きだ。ル=グウィンと私とはもちろん時代も環境も世界観も異なり、ロード・ダンセイニの作品を私は読んではいないが、ル=グウィン「わたしの故郷」という表現を聞くと、どこかで「もしかしたら同郷かもしれない」という気がしてくる。『赤毛のアン』シリーズで、アンと出逢った人が"ヨセフを知る一族"と感じる気持ちにも似ている。

下記は「見つめる眼」でル=グウィンがトールキンを引用しながらの一節。

トールキンの人生はこれほどにも充実していました。その終わりに際し、嘆き悲しんでいるのは正しいこととは思われません。ただ、この本の最後にきたとき私は顔をこわばらせしかめ面をして、小さなテッドにわたしがおしまいの数行を読みながら涙を浮かべていることに気づかれないようにしなければならないでしょう。

アーシュラ・K. ル=グウィン『夜の言葉』「見つめる眼」

 いよいよ家路につきますと、家のなかには黄色い明かりがまたたき、暖炉の火が燃え、夕食の支度が整って、彼の帰宅が待たれていました。そしてローズが彼をなかに迎え入れて、椅子にすわらせ、その膝に小さなエラノールをのせました。
 彼はほーっとひとつ深い息をつきました。「いま、帰っただよ」と、彼は言いました。

J・R・R・トールキン『指輪物語』「王の帰還」

『指輪物語』のこのラストは、ジョーゼフ・キャンベルが『千の顔をもつ英雄』で述べた"英雄の旅〈行きて帰りし物語〉"のおそらくもっとも美しい象徴であり、『指輪物語』がホビットたちの物語でもあったとするトールキンの暖かさに満たされている。サムが持ち帰った《宝》とは自らの人生の意味なのだから。

100de名著 キャンベル『千の顔をもつ英雄』THE HERO'S JOURNEY

知人のいうことは正しい。SFはSpeculative Fantasyでもあるのだ。『指輪物語』は初めから終わりまでいわゆるScience Fictionではなく、剣と魔法のFantasy世界ではあるけれど、ル=グウィンのいうように「ある種の科学的気質(踏査的・統合的気質)とファンタージー好きな気質とのあいだにはなにか関連がある」ことも間違いはないのだから。

いいなと思ったら応援しよう!