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自解*冬立つやガトーショコラに粉の雪
【スキ御礼】共鳴*冬立つやガトーショコラに粉の雪
上の記事の中に、次の選評がありました。
●「雪」が季語にしない工夫を凝らしているのは分かりますが、やはり「冬立つ」と喧嘩している印象が強いです。
このことについて考えてみます。
「冬立つ」も「雪」も冬の季語です。
一句に季語が二つあるのは「季重ね」といって、原則として避けるべきとされています。
句で「雪」は比喩として使われているので「季重ね」にはなりません。
ただ、「冬立つ」も「雪」も冬の代表的な季語で、句の見た目に印象が強く、「冬立つ」と「雪」がどちらも主張して言葉の優劣がつきにくく、句全体のまとまりがない感じがするのではないか、ということなのだと思います。
別の言い方をすると、句の中で季語かどうかにかかわらず、どちらの言葉が句の季節感を支配するのか競合してしまうということです。
今の流行り言葉でいうと、「冬立つ」と「雪」が句のマウントを取り合っている状態ということです。
実際の雪ではないにせよ、「雪」と言った時点で句には冬のイメージが支配します。そこへ重ねて「冬立つ」などと冬であることを言う必要がなくなってしまいます。
鑑賞の側からすると、
「冬になりました。雪が降ってきました。それはガトーショコラの粉でした。」
という構造になるのですが、粉の雪にあらためて冬が来たことに気づいたという発見が眼目ではありますが、「冬≒雪」と強烈に結びついてしまい、「冬だから雪が降る」という理屈に引きずられて、それ以上の鑑賞の広がりが生まれる余地を狭めているという見方もできます。
しかし句で「雪」は実際の雪ではないので、俳句では季節を特定する季語が必要になります。
この言葉の競合を避けるには、季語を変えるのも方法の一つです。
それでは季語をいろいろ取り替えてみることにします。
同じ立冬でも、その印象を薄めて、
冬に入るガトーショコラに粉の雪
年も押し詰まり、
極月やガトーショコラに粉の雪
部屋の温かさを感じながら、
暖炉ぬくしガトーショコラに粉の雪
部屋の灯の下でひっそりと、
寒燈のガトーショコラに粉の雪
ホワイトクリスマスを期待して、
待降節ガトーショコラに粉の雪
夜の森を思い描いて、
梟やガトーショコラに粉の雪
「立冬」にこだわらなくても、ほかに組み合わせはありそうです。
コメントをくださった皆様ありがとうございました。
ちなみに、お借りしたトップ画像(ribenseijinさん)のタイトルは「ありガトーショコラ」だそうです。
(岡田 耕)
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