連載:コロナ下で考えたい「学ぶということ」#006 学ぶことと「まねる」こと
前回は、とても切ない話でした。本当は体中に染みわたるようにはわかっていないのに、人の言うことを「口先だけでくり返すこと」を、またまた私の経験からお伝えしました。
私は、偉い人や先生の言うことをまなんだのではなく、その時はただ「まねた」だけだったのかもしれません。ひとまね小ザルです。「それは人のまねじゃないですか。自分にしかできないものを作りなさい!」とよく言われますし、宿題などで答えの丸写しをすると叱られます。
だから「まねる」と聞くと、それはひたすら悪いことなんだと思いがちです。「まねはいけません」と。
でも、それだと人は最初から、何もないところから、自分だけのものを作らなきゃいけないということになります。でもそんなことができるのでしょうか?
無理です。ぜったいに。
どんな天才的な画家だって、最初はとにかく嫌になるぐらいデッサンをやりますし、漢字を知らない人は小説を書くことはできません。だからまなぶことの最初には、まねることが含まれていなければ、なまびは全然始まりません。むしろ「学ぶ=まねる」としてもいいかもしれません。
でも、これでは「じゃぁどうすればいいの?」となってしまいますから、これを別の言葉で言いかえてみたほうが良いようです。
そこで提案するのが「学ぶ=まねる=言葉を増やす=考えるスイッチを増やす」という言いかえです。このように置きかえると、学ぶことは人の使う言葉を自分でも活用して、ものを考えるきっかけをたくさんにすることとなります。
かつての私は、大人や先生の言葉をまねて、そのまま人にぶつけたため、「知っているけど、それがもたらすもの」を考えていませんでした。言葉をそうやって増やしても、それだけでは「学ぶ」ことにはなりません。
でも友だちを失くしたのは、言葉が増えたことが原因ではありません。知っているけど「考えなかった」からです。だから言葉は増えたほうが良いのです。
言葉の数が増えると何が起こるでしょうか?
ものが考えられるようになるのです。
例えば、「ウザい」という言葉だけしかないと、人は自分の気持ちの複雑なところを考えることができません。「ウザい」には、「うっとおしい気持ち」、「ちょっとうるさい」、「嫌いじゃないけどめんどうくさい」、「見るだけで気持ちが悪くなる」など、色々なものがあるのに、「おむつをかえて」とか、「お腹がすいた」を「おギャァ!」としか言えない、赤ちゃんと同じになります。
でも言葉が増えた赤ちゃんは、「おむつとご飯をわけて」考えて、ママに伝えられるようになります。
まとめましょう。学ぶことはまねることであって、それによって言葉を増やして、ものを考えられるようになることです。
これはテストの答えを「知っている」とは同じではありません。
つづく。