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新刊発売します(12/12)! 『言いたいことが言えない人の政治学』(晶文社)

【”きっちり言う”と”逃げるか耐える”の間にある大人の振る舞い≒政治】

岡田憲治『言いたいことが言えない人の政治学』(晶文社)

目次
【理論編】
第1章 「声を上げよう!」と言われても
第2章 「言う」ための技法
第3章 「やる」ための技法
【実践編】
第1章 ネトウヨになった父に暴言はやめてと言いたい
第2章 「男なら泣くな」と子どもを叱る夫に言いたい
第3章 マンション管理組合の長老に「話を聞いて」と言いたい
第4章 PTA活動で「ムダな仕事は省こう」と言いたい
第5章 会社に給料を上げてほしいと言いたい
第6章 子どもに「ダメなやつ」と言った担任の先生と学校に言いたい
第7章 近隣外国人に生活マナーを守ってほしいと言いたい
第8章 地域イベントをやってみようと言いたい
第9章 多様な選択肢をつくってと政治に言いたい
第10章 戦争をやめてと世界に言いたい


<変化してしまった「ちゃんと言う」担い手>


 310万人が亡くなったあの戦争を止められなかったという反省から出発した「戦後民主主義の啓蒙」は、いろいろなやり方で行われました。でも、その基本の骨組みは、「言うべきことをきちんと主張する市民」をどうやって育成していくか、悪政と抑圧と不正に対して、どうやって「声を上げていく」のか、つまり「ちゃんとものが言えるまっとうな大人」の姿を目標にしてして行われてきました。
 大正デモクラシーにおいて「エリートによって模索された」ものを、戦争という塗炭の苦しみをくぐった普通の人たちによって、より強く育成するべきと考えられたからです。
 旧制高校、帝国大学の進学率が10%という戦前の時代、そして戦後も1950年代に至るまで、戦争と軍国主義は、わずかでもあった日本のデモクラシーの萌芽を摘み取り、戦後そこからの反省に依拠したエリートたちは、懸命にそうした戦後民主主義の構築に尽力しました。戦地に散った友人たちに代わって、生き残った自分たちにはそうした使命があると考えた人もたくさんいました。たくさんの教え子を戦場に送ってしまったその上の世代も、悔恨とともに、戦後啓蒙に努力したのです。

<ものを言う者たちにとっての新しい条件>


 しかし、戦争が終わって、もはやこの80年の時間の経過は、そうした啓蒙的な発想の前提を変えてしまっています。それは、「高等教育を受けた人間の社会の位置付けが変わってしまった」ということと、「パーソナル・コンピューターによる超高度情報社会における公共性の線引きが変わってしまったこと」、それによって生じた言論という公的活動の「個人化と液状化」という新しい現代条件です。
 もはや豊かさの底上げ、中間層の増大と解体という道筋を経て、「公的な問題に合理を持って考え、議論をし、成熟した政治的合意を作り出すための高等教育」という図式は成立していません。高等教育はもはや「ブラック企業で沈んだ人生にならないための安全保障」なのです。個人の手段です。
 人々にとって公共的空間で生ずる問題は、より個別化、微分化されたエリアで起こるものとなり、各人は様々な問題と課題に直面し、孤立しながら、不当な「自己責任」を背負わされて苦闘しています。
 つまり、「それは我々に共通する問題だから、一緒に考えて解決していこう」という呼びかけの言葉は、「ウエメセ」「ダサい」「クソつまんね」物言いとして、「ヤバい奴ら」の言うことにもされかねません。
 これは、市民がアホになったのではありません。「公共における自分たちが共有する問題」という認識に辿り着くまでの道筋が、あまりに個別化してしまって、そういう想定空間では自分たちを「当事者」として描くことができず、「公共なんていう言葉では、オレたち・ワタシたちはきちんと眼差しを向けられていると言う気になれない」という感情表現を、言論人が上手く解釈できなくなってしまっているのです。

<「正論をちゃんと言うだけ」では仲間を作れない>


 ですから、そうした感情を持つ人たちに対して、「きちんと発言ができる、ちゃんとした大人にならねばならない」と言っても、人々の心はムーブしませんし、だから世界は少しも変わりません。そういう「教育を受けたものが公的関心を持って社会の問題に向かい合って議論して行く」というやり方は、政治世界と生活世界が渾然一体となって、個別の空間で孤立しながら「政治的なるものから解放されている」と自分を規定している、たくさんの善良な人々を仲間にしていくことができないのです。 
 立憲民主党が正論を言えば言うほど、票は「理に反するようなことを言ったりやったりする人たち」に流れていきます。
 「まっとうな政治」と説教され「ちゃんと声をあげよう!」で心は塞がり、「沈黙は悪」と断じられることで、知のエネルギーは公共から拡散して液状化します。「それって、オレたち・ワタシたちのことを言ってないじゃん」です。そして、「ひどく言われても頑張っていた安倍さん」へのノスタルジーは強まります。

 そんな中でも、「このままでいいわけがないよね」と思い、「ちょっとそれはないんじゃない?」と思って、「やっぱ言わなきゃダメなんじゃない?」と思う人もたくさんいます。

 でも、言いたいけど、そうそう言えないのです。
 言える人がたくさんいて、そう言う人が増えればデモクラシーは強くなる・・・と言われても、そういう人たちだけでは多数派を形成できず、世界を変えられません。

<「ちゃんと言う」と「無関心になる」のあいだには広大領域がある>


 
 それなら、「このままでいいと思ってない」けれども、「なかなか言えない」とモヤモヤしている人たちと、「上手な言い方」、「言えなくてもできること」のマニュアル、相互の励まし合いを言葉にして、共有することが必要です。

 だから私はこの本で、「言いたいけれども、言うこともあるけれども、そうそう言えない。でも、何も考えていないわけではない」とモヤモヤする横並びの友人たちに、「ちゃんと言えなくても、毅然と演説などできなくても、できることはたくさんあるし、もうそのことを皆さんはできるし、わかっているはずです。思い出しましょう」というメッセージを送りました。

 昨年、「君たちが必死に工夫しながらやっていることは政治なのであって、それは”よくやってるね”と肯定すべきことだ。なんとか生き延びてほしい」というメッセージを中高生に送りました。(『教室を生きのびる政治学』晶文社

 本書は、それの「大人版」です。

 言いたいことが言えるひと、言えないひと、言えるけど言わないひと、言えないし言わないひと。

 すべての大人に、「それでも世界を一ミリでも変えたかったら、一緒に知恵を集めましょう」と呼びかけました。

 「市民」を政治の主人公だと言った、私たちの先生の世代の宿題を背負って、今、ここに鬼籍にある先生方に、「私の生きる今の世界を前提にすると、市民の政治学の技法とはこうなります」と学恩をお返ししたつもりです。抽象概念の域を出なかった「市民」を、私は「生活人」と和文和訳して、宿題に立ち向かっています。

 一人でも多くの「言いたいことが言えない」善良な友人たちに、この本を捧げたいと思います。「言える」友人にも、「そうそう言えない」ひとの気持ちによりそうヒントにしてもらいたいです。

 一年に書き下ろしを2冊書くというのは(『半径5メートルのフェイク論』、東洋経済新報社)、本当に命を削るものだと知りました。くたくたになりましたが、本書は担当編集者と私の渾身の一冊です。

 切に、よろしくお願い申し上げます。


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