連載:コロナ下で考えたい「学ぶということ」#005 心の底からわかるということについて
学ぶことの中には、「わかる」という話がたくさんつまっていることが、これまでの話で少しは伝わったかなと思います。「わかる」も、本当にいろいろですね。
今回は、そんないろいろの中でも、「本当に」、「心の底から」、「ちゃんと」、「今までのわかるとは違うくらいに」、「わかる」ということについてです。
私たちはよく尋ねられます。もう1日に何回も、です。「わかった?」「わかってるの?」「ちゃんとわかってるの?」「ぜんぜんわかってないわね!」と。それに対して、もう口ぐせのように「わかってるよ!」「わかってるってぇ!」とかえします。
不思議ですよね。だって尋ねる方も答えるほうも、「ちゃんとわかってる」ということがどういうことなのか、あまり考えていないのに、「わかってる?」、「わかってるよ!」と、言いあっているからです。だから、「本当にわかる」というのは、けっこう大変なことなのです。
今から40年以上昔、私には誠くんという友人がいました。バイオリンなんか弾いている優しくてちょっと美男子でした。学校で担任の先生がホームルームで「体の不自由な病気の人は、助けてあげないといけませんよ」と言っていました。私は「そうだなぁ」と思いました。わかってるって。
今から思えば、その時の私は「正しいこと口にするだけなら楽チンなのだ」ということに気付かず、今度は塾の先生の真逆の言葉である、「この世の経済に貢献できないような人はいる必要がないね」にも、疑いなく「へー、そうだよなー」なんて、簡単に「わかって」しまいました。 だから友人の誠くんにも、そのまま得意になって言ってしまったのです。
「体の不自由な人は、働いてこの世の中に貢献できないから必要ないよね」と。
誠くんは、ちょっと困ったような顔をして、その後は黙ってしまいました。そして言ったすぐ後に、私は気がついてしまいました。忘れていたのですが、誠くんのお父さんは、体が不自由で働けなかったから、いつも家にいたのです。もう取り返しがつきません。
私は、先生や大人の言うことを、そのまま口移しに言っているだけで、そのなかみをきちんと自分のものにしていなかったのです。
誠くんは、それ以来私とはぷっつりと縁遠くなってしまいました。当たり前です。いくら悔やんでも、取り返しがつきませんでした。私は大好きだった友だちを失って、心にぽっかりと穴が開いてしまいました。もう、時計の針を戻すことはできないのだなと知り、あの時の誠くんの悲しげな顔が浮かぶたびに、「僕は本当には思いやりの大切さや人を助けることをわかっていなかったんだ。ただ先生の言ったことを口移しにしただけだ」と、悲しみととも「本当に」わかったような気がしたのです。
人は、「わかってる?」と聞かれると、意地になったり、偉い人が言ってたのだからと、「わかってる」と決めつけがちです。でも、簡単に「わかった」ことは、からだの中を貫くように、「本当にそういうことなんだなぁ」となることと、同じとはかぎりません。
教わったり、言葉で聞いたり、書いてあることを読んだりするだけでは、こういう落とし穴に気付きません。学ぶということを「知っていることを増やす」というところだけでとらえてしまうと、言葉だけ知って、「言葉がもたらすもの」について、考えずに済ませてしまうのです。
学ぶということの中には、こういう「体を通じて」という部分があるのです。
つづく