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「配慮ある言動」は、必要な人に対してだけで!がダメな理由

先日学生さんと話していると、こんな声が複数上がった。

自分がリスペクトしていたり、評価をして欲しかったり、或いは脅威に感じる相手の場合は、挨拶やマナーなど、最大限注意して配慮ある行動をとる。
そうじゃない場合は、気にも留めないし、スルーな態度で気の赴くままの有体でいる。
自分はそんな風に使い分けてる。

咄嗟に、いやいやいや、と反論したくなったけれど、一端その反応は横に置き、それがどうしてダメだと思ったのか?それはそれでありだとしたら?
と考えてみた。

それがどうしてダメか?
「だってちゃんと見てる人はいるよー。」
「一事が万事という言葉もあるように~」
「そんなんじゃ、結局相手に伝わらないよ?」
こういう声が頭の中で聞こえてきたけれど、それでは説明になっていないよね。

ということで、もう一度先ほどの引用を読み直してみると、「リスペクトしている(のでこの人に認めて欲しい)」「評価して欲しい」「脅威に感じる(ので私に目をつけないで欲しい)」と理解できる。つまり、そこには相手に望むことが隠れている可能性が高い。 

人は自分に対する要求には、それが例え表面化していなくても敏感に反応する。だから、「こうして欲しいから配慮ある接し方をする。」というスタンスだと、その下心が何となく伝わってしまい相手を遠ざけたり、むしろ信頼を失ったりしてしまうのではないか?といのが今の私の考え。

とはいえ、気づかれずにうまくいってますよー!という場合もあると思う。そういう場合は、どうなんだろう?
伝わっているけれど相手が特に気にせず付き合っているケースもあると思うし、同じ穴のむじなというケースもあるのかもしれない。いずれにしても信頼関係はそこにない気がする。

そんなところかな?

そもそも、
冒頭の意見には、相手に配慮ある行動をとる=気を遣う、つまり面倒くさい。
という前提がある気がするけれど、それは面倒くさいことなのか?
どうすれば自然に配慮ある行動をとれるのか?

それはもう、配慮ある態度に自分が意義を見出しているかどうかが全てだと思う。好んでそうしたいと思っていなければ、自然に負担なく行動するって難しい。
挨拶をするとか、相手に丁寧に接するとか、心配りをするとか、
そういう行動に対する感謝や、そういう行動が相互に与える好影響、もっと平たく言えば、メリット。
これを自分が十分感じていれば自然とそうありたいと思うのではないかな。
私の経験上、常に守られている中にいるとなかなか感じられないんだけど。

それに、
万人に対してそれが出来るかといえば、仙人じゃないし、実際なかなか難しいところもある、、

だから努める。
「こうありたい」と思って目指す努力は、負担や面倒なことという位置づけにはならないから、きっと。


では、
リスペクトできる人とそうでない人とで、態度を分けてしまうのはなぜか?
ここ、次回深めたい。


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