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ブーニンの初期短編 はじめに
散文が詩になるとき
イワン・ブーニンは、詩も散文も書いた人ですが、表現の形式にかかわらず、「自分は詩人である」と考え、またその考えを公にもしています。つまり、こういうことです。詩の形式で表現すれば、その人は詩人なんだと考えるのはごく当たりまえのことですが、ブーニンは、「散文を書いている自分もまた詩人である」といっているのです。詩人であることは表現形式とは関係がなく、書きたいという衝動が、外部的な刺激ではなく、内側から生まれてくることが、詩人であることの意味なのだと。1929年にブーニンは、こんなことをいっています。
「書きたいという衝動はいつも、わたしの眼のまえに、ある光景として現われる、それは具体的な人間の姿だったり、人間の感情だったりしますが、とにかく、それに心をゆさぶられたとき、それが哀しいこと、うれしいことのいずれであっても、書きたいという衝動にかられます。(中略) それは、ある瞬間に響いてくる音、といってもいいかもしれない」。
ブーニンが「自分は詩人だ」と考える所以がこの一文によくあらわれていると思います。ブーニンがいう詩人とは、抒情詩における「叙情主体」であって、主体の内面世界の表出が、言葉で紡がれていくということなのです。
この内面の表出をわたしは、ブーニンの初期の散文作品にも感じます。読んでいると、ブーニンの心の中に広がっている風景、自然、世界が、ある痛みの感情とともに、読み手であるわたしのなかに浸透し、ひろがるのを感じます。この世界を生きる人間たちは風景の一部になっています。人間が局部的に肥大化して描かれるのでなく、世界を生きる姿としてそこにあります。描かれている人間がいなければ、風景は、言葉を変えると、世界は命を失うような気がします。
この時代、農奴解放から半世紀を経て、ロシアの風景は大きく変貌を遂げていきました。歴史学や経済学、社会学的な分析ももちろん意味のある仕事です。それとは別に、古い貴族の家柄に属するブーニン家がどのような零落の道をたどったか、それを若いブーニンがどのように言葉に紡いでいったかは、自身の自伝的文章にも書かれていますが、初期の散文には、その零落のプロセスも含めて、胸の中に映し出される故郷の風景が書き留めてられています。
次回から、短編『ターニカ』を連載していきます。訳し終え、読み返していると、あまりのつたなさに、ブーニンにごめんなさいと言いたくなりますが、読んでいただけると幸いです。なお、この翻訳は一部を省略した抄訳の形で掲載します。抄訳する箇所は、本文内に記します。
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1870年 ヴォロネジに生まれる
1886年 学費未納でギムナジウムを退学処分
1889年 新聞の編集部に勤務
1901年 詩集『落葉』刊行
1903年 プーシキン賞受賞
1911-1916年 散文集『涸れ谷戸』
全集刊行
1920年 パリに亡命
1933年 ノーベル文学賞受賞
1939-1945 短編集『暗い並木』刊行
1953年 死去