現実を越えていく劇映画/『茶飲友達』(外山文治監督)
渋谷ユーロスペース1館での上映から始まり、口コミや評価等によって全国70館まで上映劇場を増やした映画がある。2023年公開の外山文治監督作品『茶飲友達』がそれで、僕はシネマテークたかさきで鑑賞をした(上映は4/27まで)。外山監督は僕が関わる「伊参スタジオ映画祭」が行っているシナリオコンペ「シナリオ大賞」の歴代大賞受賞監督でもあり、日本映画学校15期の同期でもある。そんな縁から彼の作品はほとんどを見ているが、『茶飲友達』は今までの作品から1歩抜き出た感を感じる、彼のターニングポイントに成り得る映画であった。その1歩とは、僕の主観ではあるが、役者や作品がフィクションという壁を突き抜け、けれど映画として着地する強度を持っている、という事だ。少し長くなるが説明したい。
この映画のモチーフとなったのは、10年前の実在した事件であるという。新聞の三行広告に「茶飲友達、募集」という広告を出し、1,000人以上の高齢者を相手に売春を斡旋し摘発されたグループがあったのだそうだ。この映画では、その売春の相手をする女性も高齢者であるというフィクションを加え(実際の事件で売春を行っていたのが若い女性だったという記述はないので確かではないが)、そのグループを束ねる人物がヤクザなどではなく、孤独を抱える高齢者を本気で救いたいと思っている若い女性であったら、というフィクションも加えている。この映画がここまでの広がりを持ったのは、簡単に言えばその設定が他の映画にない特異なものであり、鑑賞をしてみれば特異な映画としてただ終わるわけではなく、きちんとした人間ドラマが描かれており深く考えさせられた。ということなのかもしれない。
外山監督は、過去の作品を振り返るに「わかりやすい作品」からのスタートであったように思う。監督作品のはじまりにもなった伊参スタジオ映画祭シナリオ大賞受賞作品『星屑夜曲』(2006)は、突然不運な死を遂げた男と残された女の食い違いを解いていくロマンチックなラブストーリー。初の商業映画となった『燦燦』(2013)は今作と同じ高齢者を主役に立てつつも、その婚活をコミカルに描いていた。時には『此の岸のこと』(2010)のようにセリフを廃し抽象的な描き方をする短編もあったが、実験作という見られ方をしたとも思うし(むしろわかりにくいこの短編が好きという人も多いようだ)、『わさび』『春なれや』(2017)の2本の短編も、魅力的な俳優を使って家族や恋はこう撮る、というバランスの良い良作であったように思う。外山監督の特質として「全ての作品の脚本を自分で担う」というものがあり、それら過去作は映画としてとても魅力的である一方で、失礼を承知で書けば「映画とはこういうものだ」という鎖で自分自身を縛っていた一面もあった・・のかもしれない。
キャリアを積み、俳優たちとのワークショップも重ね、俳優に委ねる部分や、観客の想像に委ねるという判断も出てきたのだと思う。『海辺の途中』(2019)『ぼくはぜろにみたない』(2021)では「それ以前の作品よりも若い時に撮ったんじゃないか」思わせるような自由さを感じるし、長編前作となる『ソワレ』(2020)はわかりやすい映画ではなかったように思う。そこにはむしろ、むき出しにした何か、を映画に定着させようと格闘した痕跡のようなものがあった。その作品の変化に驚いた人もいたかもしれない。そして、それらを経て本作の『茶飲友達』である。
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実在の事件からの映画化というと是枝裕和監督の作品が浮かぶ人もいるだろう。社会状況を映画に反映するというとケン・ローチ監督の作品を思う人もいるかもしれない。それら作品で必要とされるのはリアリティだ。
『茶飲友達』のパンフレット「family face」で外山監督は本作のキャスティングについて「いい面構えであるかどうか」を基準としたという。イケメンや美女であるということではなくて、「面上からにおい(匂い・臭い)が漂うかどうか」。
金目当て、だけではなさそうな若者たちによる売春斡旋グループと、それに加盟する高齢女性たち。その何人かはなぜそこに至ったかを匂わせる描写はされるものの、理解することは難しい。そこにリアリティを感じないことがリアルとも言えるが、この映画は本心と建前の映画とも言える。リアリティと言えば、このグループのリーダーである岡本玲さん演じるマナの存在が特出しているように思う。それは「こういう女性はいるかもしれない」と思わせる凄みであり、マナのシーンにおいて、フィクションである、ということを越えて訴えてくる瞬間が確かにある。そういう瞬間が度々訪れる作品は良い作品であり、彼女のシーンだけに限らず、この作品にはむき出しの何か、があり、さらにそれを野放しにせずに映画として内包させる強度ももっているように思う。
ここから思い切り個人的な感想となるが、僕はその「むき出しの何かを野放しにせずに映画として内包させる」最もたる名手はイ・チャンドン監督である(『シークレット・サンシャイン』(2008)『ポエトリー アグネスの詩』(2012)ほか)と思っている。僕以上のイ・チャンドンファンがいるなら出てこいや気分なのだが、どうやら外山文治監督は僕以上にイ・チャンドン監督好きらしい。これからの外山作品とイ・チャンドン作品を並べて語ることは意味がありそうだが、長くなるので話を戻そう。
外山文治監督はやはり物語る監督であるので、社会派な映画を作り続けるとは思えないが、作品の遍歴を見るに、彼が現在に至るまでのキャリアにおいて自己変革を行ってきたことは確かな事のように思う。『茶飲友達』はその大事な分岐点となる作品であり、高齢化や家族の確執や人肌のリアリティの喪失が問題視される今、映画によって現実を批評することのできる「現実を越えた劇映画」でもある。彼の今後に期待したい。