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心の中に誰しもが<不在>を抱えている/演劇/微熱少年『めいく みぃ すまいる、あげいん』

演劇とは何か?を語るほど舞台を見てはいないが、群馬県太田市を中心に活動する演劇/微熱少年の舞台の映像記録をずっと続けている。

舞台は、幕が上がり、役者が登場し(幕が開いた時すでに役者が所定位置にいることもある=板付き)、演技をし、幕が下りる。けれど、役者として登場した人々だけが作中人物とは限らない。役者として存在しないけれど、役者たちの語りによってその存在が浮かぶ人物。<不在>の人物というものがある。

最新作『めいく みぃ すまいる、あげいん』はまさに<不在>を描いた演劇であるが、思えば主宰の加藤真史さんはずっと<不在>を描いてきた。

2021年『縁側アロハ』では、お盆に集まる家族たちの父が亡くなっていた。

2022年『料理昇降機/the dumb waiter』では、見えない何者かが主人公たちを追い詰めた。

2022年『「小医癒病」中医癒人大医癒世』では、舞台がすでに人の生き死にが身近な病院。

2023年『すべて重力のせいだ』では、警察と被疑者の物語であり、登場しない被害者の人間像は不明確。

2023年『構造なり力なり』では、突然の死を迎えた漫画家の周辺の人々の葛藤が描かれた。

<不在>を描くことは、加藤さんに限らず演劇において、ほか映画においてもしばし見られる表現ではある。声も肉体も目の前にあることが演劇の肝ではあるが、そこに存在しない人が語られる時、それはあやふやで、形を持たないからこそ、舞台に立つ役者の中で、観客の心の中でそれぞれの存在感を示す。

2024年『めいく みぃ すまいる、あげいん』は、そのタイトル名から可愛らしい劇を想像される方もいるかもしれないが、とんでもない野心作である。今作においては<不在>の人物が、声や肉体をもって舞台に上がる。それは単純に「幽霊が登場する演劇」ではない。その画期的な構造は、多分、演劇だからこそ描ける表現であるように思う。

様々なカルチャーを演劇に取り込む加藤さん。この作品を見ていて、良き昭和のアイドルグループや、カリスマ的人気を誇った探偵を思い出すことは容易である。けれどそういった表層の裏には、<不在>と対峙せざるを得ない人々がいかにそれと折り合いをつけるか、つけれらないか、という普遍的なテーマが描かれている。

現に、僕は撮影と編集でこの劇を何度も見て、その度に<不在>の僕自身の家族のことを思った。会場となった館林美術館で観劇した人の中には、観劇中か観劇後かはわからないが、僕と同じ体験をした人が多かったのではないかと思う。

そして、『めいく みぃ すまいる、あげいん』と合わせて上演された大竹直さんによる舞台『見えないけど、本当のこと』もまた<不在>をどストレートに描いた作品であるが、たった一人で場をもっていく大竹さんの力量と、『めいく~』とは違う観劇後感により、合せて見ると発見のあるとても良い組み合わせであったと思う。

『めいく みぃ すまいる、あげいん』『見えないけど、本当のこと』の映像化にあたっては、現在クラウドファンディングを行っている(~2024/8/31)。ここに述べた<不在>を映像でどう残せたのか・・正直難しい撮影・編集ではあったが、映像であっても心を打つものはできたと思っている。

クラウドファンディングページ
応援のために作ったショート映像

コロナ禍は、対面ができないがゆえにリアル演劇を開催できない、という致命的な状況を作り出したが、その期間や直後は「演劇を応援しよう!」という雰囲気がガチな演劇好き以外の人たちにもあった気がするし、実際補助金等による助成も行われていた。

それが過ぎ、リアル演劇を堂々と開催できるようになった今は良い時代に戻ったとも言えるが、総合芸術として大きな費用もかかる演劇を続けること、記録し続けること、されにそれを地方で行いお金を回していくことは非常に困難である。

そんな状況下にあっても、僕から見た演劇/微熱少年は、主宰も役者も関係者もお客さんも、常に熱い熱量を持ち続けている。(クラファンの返礼として、僕はノータッチなのだが劇団で役者トーク映像をもりもりと制作された、すごいことだ)

そうして、演劇は続いていく。

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