特別なことはなくて良い、丁寧にそれを存在させること/小金沢智・私家版写真集『flows』
小金沢智さんとの関係は、もうかなり長いものになってきている。僕の地元で行われている「中之条ビエンナーレ」に彼と日本画グループが参加してからその存在を知り、彼が現在の山形の東北芸術工科大学の教職以前に群馬県の「太田市美術館・図書館」の学芸員を務めていた時には展覧会の映像記録などで仕事をさせていただいた。フットワークの軽い彼は今も山形県内だけに収まらず、キュレーション等の仕事で広く活動をしており、昨日も彼が主催するイベントの映像記録に呼んでいただいた。
昨日と今日の2日間のみ、東京・蔵前のiwao galleryで行われている小金沢智さんの自主企画、「『flows』を見る/読む」はただの写真展ではない。小金沢さんの父親が昨年亡くなり、彼はその葬儀の撮影を太田市美などで関わりの深い写真家の吉江淳さんに依頼した。そうして上がってきた写真を今度はアートディレクターの平野篤史さんに依頼し、私家版の写真集『flows』を50冊のみ制作した(そのうち1冊は僕もいただいているので、ご近所で関心ある方はお声がけください)。今回の自主企画は、吉江さんが撮影した写真数点が飾られたギャラリーの窓際や机でこの『flows』が読めるという企画で、昨晩は小金沢さん、吉江さん、平野さんのトークのほか、小金沢さんが声掛けをし、シンガーソングライターの前野健太さんによるミニライブも行われた。
・・と、ここまで文字に残してみて「身内が亡くなったこと、がそんな形で展開されるってどういうこと?」と思う方もいるかもしれない。僕も今もそう思っている。吉江さんが撮影した写真はさすがで、葬儀とそれに参加する家族を、遠すぎず近すぎない適度な距離から収めつつ、その日の朝焼けや日が落ちる小金沢家、さらには吉江さん自身の発案で、小金沢さんの父親が生まれ育った群馬県の南牧村の景色も、丁寧に写真に収めている。そして400枚近くあったという採用写真の中から数少なめに、過不足なく選び抜き、写真集という形に組み上げた平野さんの仕事も素晴らしい。この大判な写真集をゆっくりめくっていく行為は、単なる個人の記録を見ている、という思いから次第に「枠」をなくしていく行為にも成り得る。そこでは人によっては、写真集が持つ余白に、自身の身内の死を思い浮かべるかもしれない。
急に話を変えて。「身内に起きたこと」を表現として収めてきた人は今までにも多数存在する。写真においてもそうだが、僕は個人的にドキュメンタリー、それもセルフドキュメンタリーと称される「撮影者(監督)自身がカメラを回し、自分や自分の身近な関係者に迫っていく」表現を思い浮かべる。僕が通っていた日本映画学校は当時そのような作品を作り国内外で評価される人も複数いたりして、時代が集団から個に変化していく中で、社会的なドキュメンタリーからセルフドキュメンタリーへ関心が移っていく様が色濃く見られた頃だったように思う(思えば、前野健太さんもその頃にデビューし、極めて個人的な視点をもとに歌を発表してきた)。そこでは時にそのドキュメンタリーを「作品」とさせるがための過剰が求められることもあったように思う。自分を映す、家族を映す、それだけじゃ足りない。肉薄する映像にひきこもり、差別、宗教などの(多くは負と受け取られる)要素が加わることで、それを深くえぐり出すことで、内輪向けな映像は一転、他者やメディアから注目される存在になる。自分も自分の家族も特別だと思っていなかった僕には(その特別かどうかという判断も幼い考えだと今は思うけど)そういう作品は作れなかったし、けれどそれから5年くらいは「セルフに限らずドキュメンタリーは、普通では踏み込めない部分をえぐり出してなんぼ」みたいな考えが根強く残り、僕にとってそれはとても苦しいものだった。話を戻す。
iwao galleryは隅田川も近く、大通りからは一本裏の静かな通りにあり、南北に大きく開いた窓からたえず明るい陽光が射している。『flows』をめくっていくと、そこには地方では見慣れたような何気ない土地とそこに射す光、(ご家族にとっては特別な一日ではあるが)ごく一般的な葬儀の様子、そして故人が見たかもしれない南牧村の自然が映っている、だけ、である。特別なことは起きてはいないし、小金沢さんの文章がなければ誰の内面も、土地の名前すらも知ることができない。ただし、とても丁寧にそれらは写真に映され、とても丁寧に本という物体として形作られている(鑑賞の可能性を考え、小金沢さんの文章も本から取り出すことができるという丁寧さ)。僕はそれを見て触って、表現に対する重さから少し開放される気もしたし、より深い問題を突きつけられた気もしている。
昨日、全てが終わった後に、「客観的に見ると今回の展示は・・」と感想を話してくださった方がいて、それに対して前野健太さんが「客観的に見る必要って、あるんですかね?」と話していたことが印象的だった。
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