おおげさに言えば、絶える前に思い出すのはあるいは/太田市美術館•図書館「太田フォトスケッチvol.6 ささやかな話、確かなこと」
2025年1月26日まで太田市美術館•図書館で行われている「太田フォトスケッチvol.6 ささやかな話、確かなこと」内で展示されているワークショップ映像の撮影、編集を担当した(ワークショップ写真記録は吉江淳さん)。
太田フォトスケッチは、写真を用いた太田市の再発見を目的に、市民からの公募写真の展示やプロの写真家を招いての展覧会として数を重ねてきた。今回は写真家ではなく、佐賀大学で教鞭もとる美術家の土屋貴哉氏を招き、彼の作品と共にワークショップでの成果物をメインに展示している。
ワークショップは、心理学者の村久保雅孝氏も加わり、参加を希望した市民と共に実に不思議な取り組みを二日間行った。それは「他人にはまったく意味を持たないかもしれない、けれどあなたにとっては切実な意味を持つ何か(土屋氏はその何かを「それ」と呼ぶ)」を写真、テキスト、肉声で発表しましょう、というもの。
太田市をPRするものではないし、誰かからのいいねを求めるものでもない。そもそも、他者は不要で、わたし(各参加者)のなかにあるものを探ろうという提案。基本は各自が黙々と付箋紙に思いを書き続けるといったような静かなワークショップであったが、時には数人でグループを作り今考えていることの聞かせ合いなども行った。そこで語られるのは、幼い時の思い出話や、今気になっていることなど。僕は撮影をしていて、失礼ながら「これが果たして美術館に展示する表現になるのだろうか?」と思ったりもしたが、煽ることは一切なく、時に自作や海外作家の作品解説も交えてとつとつと語る土屋氏は巧みで、実際の展覧会を見ると全ての参加者が素晴らしい表現をしている(ワークショップの様子は三階の個室で映像、吉江さんの写真、印象的な言葉のテキストとともに見る事が出来るので、ゆったり時間を作って見に来ていただきたい)。
二階に展示されている土屋氏の過去作品は写真撮影可なのに、一階の「それ」(ワークショップの成果物)は写真撮影不可というのも興味深い。それは個々のある程度プライベートなことが語られているから、という事もあるとは思うが、僕には別の意味もあるのではと感じた。それは、そこで見た「それ」は明日には、いや、早い人であれば展示室を出た直後に忘れてしまうであろう、という〈美しさ〉だ。写真に撮れないから、できる範囲で記憶は出来ても、記録が出来ない。
各人がその人ならではの出来事を語っている。そこには、自転車や茹で卵、金山などの固有名詞があり、またごく短い物語として、感動まではないが今僕が思い出せるものもある。それらは、本人であれば覚えているが、という絶妙にささやかな話が多い(各自の「それ」が多層的になるような展示レイアウトも良い)。いや、本人ですら、ワークショップで自問しなければ思い出す事もなかった儚いことかもしれない。その儚さが、とても美しいのだ。
僕もある程度年を重ねた。死ぬ日を考えるにはまだ早い気がするが、おおげさに言えば、絶える前に思い出すのはあるいは、大成功でも大失敗でもなく、他人にはまったく意味を持たないかもしれない私にとってのささやかな「それ」なのかもしれない、などという事を思った。コンパクトな展覧会ではあるが、何か感じた方はぜひ足をお運びください。