幼いころ読んだ本/絵本で
タイトルも何も分からないけど
1シーンだけ覚えているものって
結構ある。
本に描かれたご飯を実際に食べることができるが
おいしすぎて気付いたら全部食べてしまって
絵本の中身が空っぽになり、
自分で料理を作って絵本の中に戻す話。
おじいちゃんだかおばあちゃんだかが
シャケをほぐして
醤油でビタビタにして
ご飯にかけて食べる話。
市場で完熟トマトを売りながらも
本当はそれを自分で食べたくて仕方なかった話。
共通点は、
食べ物がおいしそうに描写されているシーン。
私は食に関して貪欲で、
「子どもにいかに気付かれず自分の好物を食べ切れるか」
「どうやったら家族のいない隙に、完全に証拠を隠滅して食べられるか」
いつもそんなことばかり考えている。
「普通」のお母さんであれば
こんなにおいしいもの、子どもにも分けてあげたい!
と思うのであろうが、
私にはその感覚が一切なく、
むしろ好物を目の前にしたときは
親子関係などすっかり忘れて
「ここはサバンナだから。食べなきゃ生き残れないから。」
と屁理屈をこね、
子どもに「それちょうだい」と言われようが、
「これ腐ってるしママが味見しとんねん」
と言って、断固として譲らない。
それでも、
「どうしても食べたいんだ…」
と訴えられたらさすがに、
「分かった…お腹痛くなるかもしれないけど…いいよ」
と言って、食べさせるが、
心の中では
(お腹痛くなりたくないからやっぱり食べない、って言ってくれないかな)
と思っている。
仕方ないのだ。
きっと私は前世、
満足に食べることなく飢餓のまま生涯を終えたのだろうから。
幼少期の私は
食べるスピードがすこぶる遅く、
いつも父方の祖母に
「あんたは本当にまずそうに食べるね」
と言われ続けていた。
ダイニングテーブルに家族全員一斉につくも、
最後まで座っているのは私で、
私が食べ終わるまで、
正面には家族の誰かが座って食べ終わりを待っていた。
私の箸の運びや咀嚼、表情をジッと見られ、
「もっとおいしそうに食べられないんだろうか」
と小言を言われつつ、
ご飯をかきこむ。
自分の中では
本当においしいと思っているのだけれど
周りから見るとまずそうに食べていたらしい。
なので、精一杯
おいしそうな表情を演技する。
しかし、その表情はむりやり作ったものなので
咀嚼には向いていない。
更にスピードが落ちた。
「食べるの遅い人は仕事のできない人だからね」
そう言われるが、
遊び食べしているわけでもなく
ずっとダイニングテーブルに張り付いているのに
なぜこんなにも人とスピードが違うのだろうと
困っていた。
咀嚼スピードが遅いんじゃないか、とか
飲み込むスピードが遅いのは食道の狭さかな、とか。
色々考えた。
確かに本の中の登場人物の表情を想像すると
みんなおいしそうな顔で食べているんだよな。
なんで私はそれができないんだろう。
ご飯を作ってくれた人も
おいしそうに食べる顔を見れたら嬉しいだろうな。
きっと、
前世であまりにもご飯を食べていなかったせいで、
食に関する興味はあっても、
上手な食べ方が分からないのだろう。
私が自分の前世を
「飢餓で命を落とした人」だと
設定し始めたのはこの頃からだった。
転機が訪れたのは高校生になったとき。
高校生になったら絶対にやりたいことのひとつとして
「授業中にこっそりお菓子を食べる」
という項目があった。
中学生までゲームどころか
漫画は『はだしのゲン』以外禁止されていたため、
こっそり近所の同級生の家に行っては
(当時から見ると)大人びた少女漫画を読み漁っていた。
その中で
"高校生が机の下にアーモンドチョコを隠して授業中にこっそり食べる"
という描写があり、
「なんてかっこいいんだ!これが高校生か!」
と憧れを抱いたのだ。
隠れて、いけないことをする背徳感と、
それを実行できる少し大人になった自分。
めちゃくちゃかっこいい。
ついにその機会が訪れた。
席替えで廊下側の一番後ろの席になり、
移動教室がない場合は自分の席で授業を受けられる。
絶好のチャンス。
緊張で、前後の流れは何も覚えていないが、
教壇の方をチラチラ確認しながら、
机の下のアーモンドチョコに手を伸ばす。
のちのち発表の機会で自分が教壇に立った際、
実は廊下側端の一番うしろの席が、
最も目につきやすい場所だということに気付く。
その次は、真ん中の中央席。
廊下側の一番うしろなんて最悪だ。
人間は心臓が左についているので、
自然と、右より左を意識するようにできている。
いま思えば、先生には完全に気付かれていたと思う。
しかし学校柄、素行の悪い生徒は少なかったため、
「糖分を補給しているんだな」
と、ポジティブに捉えてくれていたのか、
注意されたことは一度もなかった。
しかし、私は勘違いした。
「こんなに悪いことをしているのに気付かれない。すごくかっこいい。」
そして調子に乗った結果、
「次は下校中に寄り道して買い食いしてやろう」
という思考に辿り着く。
飢餓が「食の楽しみ」を覚えた瞬間だった。
どんどん貪欲に、大胆になる。
まともに部活も入らず、
帰り道は必ず友達とダイエーに立ち寄り、
クレープやポテトを食べる。
ミスドの汁そばが好きな友達と帰った日はミスドもハシゴし、
隣のゲームセンターでプリクラを撮って帰る。
「今日はもんじゃを食べに行こう!」
となった日は、連絡もせずに帰宅が遅くなり、
その度に、下宿先の祖母(母方)に心配をかけた。
「"食"って、こんなに楽しいんだ…」
「楽しいことを邪魔しないでほしい」
もともと私は
食べるのが遅かっただけで、
胃袋自体は少し大きめだ。
出されたものは次から次に食べることができるので、
韓国や中国のように
「食べ物を少し残すのがマナー」である国には向いていない。
日常でも、
一食でラーメン3人前ぐらいは余裕なのだが
あまりにも食費がかかりすぎてしまうため、
ビールを飲んで膨満感を得る。
友人にも交際相手にも
「まだ食べるの?」
と言われることが多く、
よっぽど理性を働かせて
「これ以上食べたら体重的にまずい」
もしくは
「やばい、引かれてそう…」
と自分で思わない限り、
食べ続けてしまう。
仕方ないのだ。
きっと私は前世、
満足に食べることなく飢餓のまま生涯を終えたのだろうから。
大学生になりアルバイトでホステスを始めてからは
食に対する貪欲さが減った。
(下記記事参照)
というのも、
「常に食べ物が提供される環境」
になってしまったから。
食べられるのが当たり前で、
座っているだけで誰かが食物を運んできてくれる環境。
左うちわで豪華な椅子に座っていると、
次から次に、肉やフルーツが運ばれてきて目の前に置かれる、
そんなイメージだ。
「いつでも欲しいものが手に入る」
そんな状況は、全然幸せじゃない。
完全に「昼の人間」になってからは、
少しずつ貪欲さを取り戻せた。
自分の稼いだお金で食材を買い、
料理を作り、
お酒をたしなみながら食す。
それがどれだけ幸せなことか。
子どもが産まれ、成長するにつれて、
さらに貪欲さが増した。
「気を抜いていたら奪われる」
「満足に食べられない」
たまにこのような心理状態に陥る。
その点、夫は偉い。
彼は私と違い、子どもに自分の食べ物を分け与えることができるから。
前世は貴族の生まれだったのだろう。
「これうまいぞ、食べろ」
「パパのは?」
「パパはあとで食べる」
そういう会話を聞くたびに、
私も便乗して、夫の分までこっそり食べる。
バレたら怒られるので、用心深く。
高校時代のアーモンドチョコのように。
貴族から食べ物を奪っても、
あちらにとっては痛くも痒くもない。
子どもに「食を分け与えられる」人は
問答無用で好印象。
だって、前世、貴族だから。
自分ができなかったことをできる人だから。
我が子たちは食に貪欲だ。
子どもたちの食事には
わりと気を付けている方で、
野菜、炭水化物、タンパク質
毎食まんべんなく用意しているつもり。
むしろ第一子のときは
気を付けているどころか、
かなり敏感になっており、
おやつはスナック菓子ではなく、枝付きのレーズンや焼き海苔。
枝付きであれば、枝から実をもぎる指の動きが
脳の刺激になると考えてのことだ。
他にも、
バナナのお尻の部分は農薬がたまっていそうだから排除、など、
子どもにとって息苦しいものだったと思う。
第二子、第三子が生まれると
おやつ関連は何も気にならなくなり、
(気にする余裕がない)
気を付けるべくは
普段の食事のみとなった。
栄養士の幼馴染から
「子どもが好き嫌い多くても、お米だけ食べてればとりあえず大丈夫よ」
というありがたい言葉をいただいたので、
満遍なく栄養を摂らせつつ、
炭水化物(お米)はいつも山盛りにしている。
それでもなお、
私のご飯にまで
ちょっかいを出してくるのだ。
「うそでしょ?え、結構食べたよね?」
「食べたけど、それも欲しい」
ああ、貪欲だ。
この子たちもきっと、
前世は飢餓で苦しんでいたに違いない。
むりやり私の食物を奪っていく第二子、第三子と違い
第一子は貪欲ながらも優しい。
「本当は食べたいけど、これ以上食べるとママの食べるのなくなっちゃうから大丈夫。オレのお小遣いでお刺身買ってこようかな。ママも一緒に食べる?」
ーーー私と子どもたちは前世で、
同じ状況に置かれていた。
お腹が空いても食べる物がなく、
誰かが捨てた少量の食物を拾ってきては
がむしゃらに食べる。
次にいつ食べ物にありつけるか分からないので、
その場その場を必死で生きている。
ただひとつ違うのは、
最初に見つけたもの勝ちの世界において、
私は自分が発見したものを黙って全て食べ、生き残ろうとした。
第一子は、周りに均等に分けて
「共に生きる喜びと、一緒に食べる人のいる幸せ」を
感じていたのかもしれない。
貪欲は、楽しい。
「欲」あってこそ、
一喜一憂しながら、人生を楽しめる。
その「欲」を一緒に楽しめる人がいること、
それが更にスパイスになる。
勝ちたいし、あるときは共有したい。
魂年齢は、
私より第一子の方が圧倒的に上だ。
我が子たちが
貪欲であることを喜ばしく思いつつ、
第一子の魂年齢に近付けるよう
努力しようとも思った。