「できない」を使う でち日報2024/11/03
ものごとの理解力がある友人たちが共通して言うことには、「本が読めない」「本が読めなくなってきた」ということがあって、
これ多分、本を読むということ自体が、「他人の理解力を借りる」という段階を含んでいるからで、
ある程度以上の抽象的理解力をもっている人間は、その段階で、何らかのコンフリクトを起こしているんだろうね。という話をしてました。
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そういう理由で本が読めない人たちは、その分、直接人とやり取りすることで、読書と同等かそれ以上の知識や体験を得ているようで、
あるいは、図抜けた理解力を仕事にしている人間は、読書をしてもコンフリクトを起こさない。というパターンもあるにはあるんですけど、
どっちも自分には関係ない、別世界の住人の話ではあります。
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だからその、他人の理解力を借りる必要がある側の人間として、自分の読書行為を肯定することができる。
この前のnoteの話にも通じる
個人にはそれぞれ、外部化された能力補完機能があると良いと考えています。メガネとか、タスク管理ツールとか、そういったものの中に読書を位置づけるならば、
具象と抽象を行き来すること。それだけではなく、抽象的なフレームワーク自体を、本から拝借することも、能力の補完機能として期待できるのではないか。そういうことを思います。思うというか⋯自分の中で、そういう整理になります。
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でもさ、そういう何らかの「効果」って期待すると逃げるんですよね。
目的ドリブンは快楽の先延ばしでもある。しかし快楽感情は記憶の定着に必要。定着した記憶が次の快楽行為を求める。それ抜きに反復はつらい。
長期的な快楽とその希求を訓練するということは、まあ、誰にでも意識的にできる類のものではないように感じます。経験的に。
そこで短期的な快楽、即時の快楽を読書から見出す必要がある。読書だけでなく、テキストを読むこと自体がうれしい、たのしい。を養う必要がある。
まあそれを養う具体的な方法については、今あんまり思いつきません!
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んでんで、理解力の高い友人たちが読めない本を、自分が代わりに読むということには、今のところ意味があるようなんですよ。
なにせ理解力があるので、こちらが本の内容を簡単に紹介するだけで「あーね」となる。
そこから彼ら(我々)が必要とするフレームワークは、それだけで抽出されてしまう。だから、理解力が衝突して本を読めない人たちが、そのまま本を読めないままでいい設計、というか、仕組み、座組みとか呼ばれているものができあがるわけですよ。
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チームや社会における役割分担って、能力の差によるものばかりでなく。
「高い能力の発揮を依頼され続け、もうリソースが残っていない人」が抱えている「別にその人じゃなくてもいいけど誰かやってほしいこと」を引き受ける。というパターンもあるんですよね。仲間内でこれを「剥がす」と呼んでいますけども、
自分は体力も能力も平均以下で⋯とクサクサしながら生きてきたんですが、あるタイミングで、この可能性に気づいて、
「おい!そんなつまらんこと(向いてないこと)は俺にやらせとけ!!!」と妙なキレ方をする人間になりました。そして、
友だちから、本人がやらなくてもいい作業を拾い集めさせてもらって、家族を養っています。廃品回収業、森の分解者、みたいな役回りですね。
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つまり何かが「できない」こと、これ自体がリソース・資源である。という考え方ができるわけです。
何かができないということは、できないからしてない分の、時間と元気が余っている。絶対量が人よりも少ないとしてもですよ!
その時、どうやって人から作業を「剥がし」て、能力に依存しない設計をするか?その再現性、一度作った仕組みの転用可能性は?
さいわい、そういった操作には個人的に興味があります。快楽があると言ってもいい。
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