神津島 神社旅(八)
青木昆陽と与種神社
疱瘡神社をさらに先に進むと、島の高みに与種神社がある。立て札の説明によれば、祭神は青木昆陽らしい。薩摩芋の父と尊称され、小学校の教科書にも載っていたのを覚えている。青木昆陽が広めた甘藷の栽培法は、慢性的な飢饉で苦しんだ神津島の暮らしを救ったのである。その恩恵に感謝をこめ、島民が祠を建てたらしい。与種神社は明治四十年に発生した豪雨で押し流され、三年後の四十三年には物忌奈命神社に遷宮され境内社として存続して来たが、昭和十年に氏子の希望でもとの場所に移された。現在地である。
この小さな神社には、もうひとつの言い伝えがある。グーグル・マップを開いてどんどん拡大してゆくと、神社の近くに「よたね広場」がある。調べてみると、「よたね」とはこのあたりを指す地名のようだ。そして、その「よたね」の語源は青木昆陽ではなく、文禄・慶長の役で朝鮮出兵に加わったキリシタン大名の小西行長にあるという。行長は戦役で孤児となった女児を連れ帰り、少女は長じて「ジュリア」の洗礼名を持った。「おたあジュリア」、あるいは「ジュリアおたあ」のことであろう。
成人したジュリアは家康に侍女になったが、禁教令で改宗を求められても棄教せず、まず大島へ流された。その島の東南部の人里離れた海浜にオタイの浦(筆島海岸)があり、そのすぐ冲には筆島が屹立している。海岸の丘高くにジュリアを記念する十字架が建ち、その下にはオタイネの碑をみることができる。ジュリアはその後、新島に移され、さらに神津島へ流され、そこで一生を終えた。与種神社やよたね広場の「よたね」は「おたあジュリア」の「おたあ」が訛ったのではないかと伝えられる。最後の流刑地、神津島でジュリアが暮らしていたところを「おたあ」と呼ぶようになり、そこから「与種」になったのではないか、というのである。
X-E1+NOKTON 40mm 1.1.4
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