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老残日誌(一) 猫は畑鼠を捕えて苗を救う

猫は畑鼠を捕えて苗を救う

鄧拓(筆名:馬南邨、一九一二〜一九六六、文革で三家村批判に遭い迫害死)の『燕山夜話』をめくっていたら、その第五集に「養猫捕鼠」(猫を飼って鼠を捕まえる)という小品があった。読みすすめてゆくと、「猫」の語源に言及した箇所があり、おもわず惹きこまれる。鄧拓の再引になるが、北宋の陸佃(一〇四二〜一一〇二)が著した訓古の名著『埤雅』(ひが)に「猫」の字義を記した箇所があり、「鼠善害苗、而猫能捕鼠、去苗之害、故猫之字従苗」と解釈している。つまり「鼠は苗を害すが、猫は鼠を捕え、苗を救う。故に、猫の字は苗から派生した」という意味だ。「苗」は田畑の苗、「鼠」は畑鼠(ハタネズミ)のことであろう。

漢文学の泰斗、白川静の『字統』にあたってみると、『説文新附』から引いて「声符は苗。狸の属なりという」とある。解釈としては『説文』を引いただけの説明におさえてある。猫は「狸の属」だったのかという驚きは筆者の早とちりで、中国語の「狸」(り)はタヌキとネコの両義で、この場合はネコと同定するのが妥当である。ところがその説明のつづきに「家猫を狸奴という」というくだりがあった。すくなくとも『説文』の新附を撰して訓古した清の鄭珍の時代、家猫は観念の世界では「奴」扱いだったのだろうか。諸橋轍次の大漢和辞典もおなじく『説文新附』から引き、白川『字統』の解釈に加えて「従豸苗聲」とあるので、ここから「猫」の声符が「苗」からきていることがわかる。鄭珍は『説文』に解釈を加える際、陸佃の『埤雅』を参照しているのが見てとれよう。

ためしに、大槻文彦の『大言海』で「猫」の条を開いてみれば「人家ニ畜フ小サキ獣、人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易ク、又能ク鼠ヲ捕ウレバ畜フ。形虎ニ似テ、二尺ニ足ラズ、性眠リヲ好ミ、寒ヲ畏ル。毛色、白、黒、黄、駁(ブチ)等、種類ナリ。其睛(ヒトミ)、朝ハ圓ク、次第ニ縮ミテ、正午ハ針ノ如ク、午後復タ次第ニヒロガリテ、晩ハ再ビ玉ノ如シ。陰處ニテハ常ニ圓シ」とあり、面白い。『大言海』にある猫の瞳の変化についての典拠はおそらく『准南子』(えなんじ)の「貓眼黑睛如線,此正午貓眼也。有帶露花則房斂而色澤,貓眼早暮則圓,日漸午狹長,正午則如一線爾」と思われる。『准南子』はいうまでもなく、前漢の武帝期に淮南王の劉安(前一七九〜一二二)が天下の学者を集めて編纂した書である。あたりまえのことながら、猫の性が人間とおなじように千古のころより二千年のときを経てもなお愛すべき姿態であることに安堵をおぼえる。

中国文学の巨星、今村与志雄が本業執筆のかたわらに楽しみながら書いた(本人談)という名著『猫談義』に、犬と猫の性格を比べた「猫認屋、犬認人」というくだりがある。猫は家につき、犬は人につく、という意味だ。これは清の咸豊年間(一八五一〜一八六一)に活躍した黄漢が著した『猫苑』からの引用で、原典(張魯原編著『中華古諺事典』による)には「俗称;猫認屋、犬認人。屋瓦鱗比、雖隔数百家、猫能覓路而帰、然不能識主人於里門之外。犬之随人、乃可以幹百里也。何物性之不同如此」(俗に、猫は家につき、犬は人につくという。たとえ家々が鱗のようにびっしり建ち並んで数百軒離れていても、猫は道を見つけて家に帰ることができるが、門の外に飼い主を見つけられない。犬は人に随い、ともに百里を歩くこともできる。これ犬猫の物性のちがいであろう)とある。愛すべき猫や犬に対する見方は日中間に大差はないようだ。『猫苑』は清の嘉慶(一七九六〜一八二〇)三年に王初桐が編んだ『猫乗』とともに、中国で書かれた猫書として知られる。

中国でも、そして日本でも、猫は文人と相性がよいようだ。その代表例を挙げれば、中国では老舎が『猫城記』(火星に不時着した人間がそこで見た猫人やその町、猫社会を描いた空想小説)を書き、日本では夏目漱石の『我輩は猫である』が有名である。書庫の線軸書画が鼠に齧られるのを嫌い、好んで鼠を捕える猫を飼ったというのも、文人が猫を愛した理由のひとつであろう。

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