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老残日誌(二十)

巴山夜雨 
 
北京語言学院に留学した翌年、一九七九年の一月末、大学が主催した旅行で湖北、湖南、四川方面に向かった。まず武漢に赴き、そこで黄鶴楼や武漢大学を訪れ、東湖に遊び、そして武漢長江大橋などを見学した。宿泊所は揚子江北岸の勝利飯店だった。黄鶴楼は再建される以前の古い建物だったと思う。李白の詩「黄鶴楼送孟浩然之広陵」(黄鶴楼に孟浩然の広陵に下るを送る)の第二句「煙花三月下揚州」は、江南における早春の景色がみえるようでとくに好きだ。武漢から南京への旅はいまなら高速鉄道や航空機で難なく着いてしまうが、交通が未発達だった近代以前の時代には揚子江を数百キロもくだり、数日、あるいはそれ以上を要する大旅行だったにちがいない。黄鶴楼には李白だけではなく盛唐の詩人崔顥や宗代の陸游、そして現代の毛沢東らも登楼してその心境を詠んでいる。 

語言学院の仲間たち

〔写真〕北京語言学院学生寮

あれは、一九七九年か八〇年ころののことだったと思う。ラジオペキンの同僚だった林為明と、いつも人通りの多い北京の前門外をぶらぶら歩いていたとき、その日はおそらく国慶節か春節の直前でとくに混雑が激しく、歩行もままならないほどに人民が右往左往していた。団子状になって身動きがとれない人群のなかから、突然、「革命洪流!」という叫び声が上がり、それにつられて「ワア~!」っと人の流れが制御不能に陥り、わたしは襲ってくる「革命の激流」をどうにか押し返しながら、おもわず林為明と顔を見合わせ苦笑してしまった。「革命洪流」とは、なんと的確な表現、なんとその場の雰囲気をうまく言い当てた言葉だろうか。中国人民の優れた言語感覚に脱帽するしかない。一九七九年は中共党=国家政権が経済の対外開放政策に舵を切った翌年で、人民は建国以来つづいてきた政治闘争に疲弊し、そろそろ「継続革命」に嫌気がさしてきたころだった。そうした社会的な雰囲気のなかで放たれた「革命洪流」という叫び声は前門外に蝟集した人々の心をとらえ、共感の渦が巻いた。もちろん、パロディとしての「革命洪流」であり、想像の共同体におけるどちらかといえば負のほうに振れる「認同」(アイデンティティ)であったことはいうまでもない。 

武漢駅前2

写真は、一九七九年の早春、まもなく煙花三月を迎える武漢の「人民的洪流」であった。西南旅行に旅立った北京語言学院の留学生グループが漢口の駅頭に立ったとたん、「人民的洪流」に襲われた。いわゆる「囲観」(夥しい人群に囲まれ、足の先から頭の天辺までじろじろ観察される)だ。当時としては決して珍しい出来事ではなく、とくに欧米系の外国人だったらたれでも一度や二度は経験しているのだが、中国の街路における外国人の日常風景が当たり前となったいまとなっては懐かしい現象である。 

武漢駅前1

いま、中国の人口はおそらく十五億人を突破し、当時よりも三億人ほど増えたのに、街頭で「革命的洪流」や「囲観」が起ることはめったになくなった。これらの現象は、中共が革命を放棄してブルジョア政党に変質したのと時期をあわせるように消失してしまった。一九七九年、前門外で偶然にも放たれた「革命洪流」という言葉のなかには、たとえ革命に疲れた人民が苦痛と諧謔のなかから吐き出したパロディであったとしても、そこにはやはり社会主義革命を信じようとする真面目な人民のピュアな革命精神の残滓が残っていたのだった。 

武漢長江大橋

〔写真〕武漢長江大橋

武漢から長江を遡る奴隷船のような老朽大型船に乗り、宜昌とか白帝城、三峡などを経て重慶まで航行した。三泊四日くらいの船旅だったと思う。乗船してまもなく親不知(おやしらず)が痛みはじめ、重慶までの数日間、巨浪のように襲ってくる激痛に苦しんだ。 
 
やがて船が岳陽に近づくと、茫洋とした揚子江南には洞庭湖が展開し、一気に江幅が広くなる。対岸が霞んでみえない河川というのは、生まれて初めての経験だった。奴隷船は赤壁のある岳陽の北郊をかすめ、これから荊州や万県の桟橋をめざし、殺伐とした大河の水面を大陸の懐奥深くに遡行する。 
 
陸影のある左舷で、母子の写真を撮る。小さな子供が被った毛糸の帽子がかわいらしい。おそらく母親の手編みであろう。一人っ子政策(只生一個好! 独生子女政策)は、この年、成都で開催された党政会議で決まり、衛生部(銭信忠部長)の呼びかけで、不妊手術や刑罰を含む専制的な人口抑制政策が実施された。法定婚姻年齢が引き上げられ、男性二十二歳、女性二十歳と規定される。人口減少傾向にあった少数民族は、逆に男性二十歳、女性十八歳に引き下げられた。この法律の適用を免れた写真にみる美人の母親は、三人もの子供をつれている。きっと、故郷へでも帰るのだろう。 

巴山夜雨(調整)

余談だが、翌年、シルクロードへの旅の途上、蘭州の薬局で中国製造の避妊具を発見したので、仲間数人で面白半分に購入しようとしたら、店内で急遽店長・店員会議が招集された。十数分の協議を経たのち「外国の同志には免費供与」という裁定がなされ、一箱(五十個入り)をロハ(只)でもらった。人工抑制政策の恩恵だろう。当時の中国製避妊具は内部にさらさらした粉がまぶしてあり、それで滑らかさを高める構造になっていた。 
 
揚子江沿岸の風景は縹渺として寂しく、黄砂を含んだ河水は黄色く濁り、ときどき停泊する津に桟橋はなく、下船客は陸から渡された細長い橋のような板をつたって降りた。この旅行の後だったのか、それとも前だったか忘れてしまったが、北京語言学院の近所にあった五道口商場のどん詰まりの新華書店で『巴山夜雨』という小説を買って読んだ。もう記憶は曖昧だが、文革で迫害された人の生活をシリアスに描いた内容だったと思う。のちに映画化もされ、それも観た。写真の母子がながめている辺りがちょうど巴山地域だ。この季節、揚子江の河岸は、毎夜、降雨がある。風景に湿度が感じられるので、おそらく雨のあがった早朝に撮ったのだろう。 
 
奴隷船が重慶の朝天門桟橋に着くと、その足で引率の先生(許秋寒女史)につれられ、痛む歯を押さえながら市口腔医院に急ぎ、そこですぐに切開して抜歯した。その晩は顔を鈍器で殴られているような断続的な痛みがあり、眠ることができなかったのは、辛く懐かしい想い出である。翌朝、激痛はうそのように去り、武漢で乗船して以来の苦しみから開放された。重慶の中米合作所あたりにあった公園で地元の少年と一緒に撮った写真の顔はずいぶんおだやかなので、きっと痛みがなくなり、ほっとしているのだろう。少年が被っている「中国小海軍」の帽子が当時の時代性を表している。あのころの子供たちは、みな、軍隊をイメージした玩具の鉄砲とか帽子などを好んで身につけていた。記憶のなかの筆者も「為人民服務」とシルク印刷された肩掛けバッグをたすき掛けにして背負っている。中国小海軍の少年は、もう五十年輩の紳士になっているのだろう。人生は、うたかたのように儚い。 

中国小海軍

この旅行の前後、三中全会で決議された中国経済の「対外開放」や西単の「民主の壁」事件、そして魏京生が身を賭して求めた五つ目の現代化=政治の民主化を希求した「北京の春」とつづき、中国社会は大きく揺れたのだが、旅行そのものは初めての「外地」(地方)だったので、土地どちの風物にふれて有意義だった。三週間ほど地方訛りの聴き取りに苦労したが、北京に帰ってみると、旅行前よりもちょっとだけ北京語が上手くなっているのがわかり、勉強の成果を肌で感じることができたのである。
 
Petri V6+50mm 1:1.7 

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